―――ほんの少しだけ浮上する意識につられて、薄らと目を開ける。
ぼんやりとした視界の先は、暗い。
あの後直ぐに気を失ってしまったらしく、だが、それから時間は然程経ってはいないのかも知れない。
だとすれば、それは未だ夜が明けてないからだ、と頷ける。
だが、そうではなく…あの時、確かに近付いて来ていた狼共に、あのまま気を失って後一息にその牙の餌食にされていたとすれば…
ここは俗に言う、死後の世界とかそう言うものだろうか?
そうだとしてもこの暗さは、何となく印象的にその想像にも如何にも合致している様で。
…仮に死んだとして、呑気にそんな事を考えている自分は何処か滑稽だが。
しかし、更に少しだけはっきりとして来た視界に映る景色に、取り敢えず後者の考えは間違っている様だった。
この目に見えるのは、夜に沈む森…だが、それは物凄い速さで後方へと過ぎ去って行く。
自分が走っている訳ではないのは、何よりも自分自身が分かっている。
ならば、誰かに運ばれていたりするのだろうかとも思ったが、全くの振動を感じないのがそれを否定した。
否、確かに移動はしているのだ。
人の手ではなく何か、別の――
ふと手元に向けた視線に映った物と、その滑らかな毛並みの感触に一瞬馬かとも思ったけれど…違う…。
馬、ではない。
馬ではないが、馬によく似た…漆黒の毛並みと鬣を持った…―――
『…余り無茶をしてくれるな…我等が姫神子よ…』
不意に、頭に直接響くかの様な声が届く。
その深く、だが何処か安堵すら与えてくれる様な声の主が一体誰なのか…
確かめる暇すらなく急激な眠気に襲われ、抗う術もないままに、は再びその瞳を閉じた。
序章 其ノ四 そして賽は投げられた
「――ったく…帰って早々迷い子捜しとはなぁ…」
「そんな風にぼやいている暇があるのなら、ちゃんと捜す事に集中したら如何です?」
貴方は何時だってそうなんですから、と呆れた様に溜息を吐くと心外だと言わんばかりに反論が返って来た。
「いやいやちゃんと真剣に捜してるぜ?…とは言え、風早が言ってた外見の特徴って言っても…“黒い短めの髪に、服装は少年っぽい格好をしているけれど――っ」
と、そこまで話した所で不意に言葉を切ると唐突に手綱を引いた。
同様にして走らせていた馬を並んで止めさせると、視線を前方へと向ける。
「――女の子”、と言う話…でしたよね?」
先の言に続ける形で口を開く。
下町から少しばかり外れた所に位置する森の、入ってすぐ。
町の者らが農具やらを纏めて仕舞っているのだろう小さな納屋の壁に、背を凭せ掛け地に座り込んでいる、
一見…少年にも見える様な一人の少女の姿があった。
目を閉じ、恐らく気を失っているのだろう少女は何処かぼろぼろな感じで。
近くで見てみないと分からないが、もしかすると傷も負っているのかも知れない。
十中八九、風早や耶雲が言っていたのはこの少女なのだと思う…が。
「もう一人、ですか…」
同様にして、件の少女の傍らに寄り添い合う様にもう一人。
此方は一見して少女だとすぐ分かるのだが――二人の手は、決して離さぬと言わんばかりにしっかりと、結び合っていた。
再びの意識の浮上は唐突で、何の苦もなく、眠りから覚めるかの如く自然なものだった。
それと同時に感じる何人かの人の気配……二人、だろうか?
あれから自分は…自分達は、どうなったのだろう?
こうして何処か呑気に考えている自分を思えば、恐らく死んでしまったと言う結論には至らなかったのは確かな様だが…。
先程から感じる気配と、内容までは分からないが何らかを話し合っている声が聞こえる。
一体、その者達は誰なのだろうかとそう思い、未だ重い瞼をゆっくりと開けようとした…丁度、その瞬間―――
「 …はそっちを運べ。さっさと連れて行こうぜ」
繋いでいた手から離される温もり。
そして聞き様によっては不穏にも取れるその言葉に、の意識は一気に覚醒した。
目を開けるだに、何者かの手によって横抱きに抱え上げられている少女の姿が視界に飛び込んでくるのに、思わず動こうとするが如何にも上手く行かない。
「…っと、おい!暴れるなって!!」
そんな声が掛って、漸く自分も何処かに運ぶ為にか抱え上げようとされている事に気付いたが、それよりも先ずは少女の方が先決だ。
「――っ、離っ、せ…!」
こんな正体不明の、少なくともにとっては見ず知らずの男達に訳も分からず運ばれるままに身を任すなど、堪った物ではなかった。
―――今思えば、その生い立ち故に簡単に人を信用するなど出来ようなかったし、かなり混乱していたからかも知れない。
何より、その時の自分にとっては少女の命が最優先だった。
なのに、敵か味方かも分からない…こんな男達に連れて行かれるなど…
「離せっ…その子もっ!」
「だから、少し落ち着けって!!」
「――…分かりました」
「え……?」
「…って、おい、何その子下してんだ!?」
余りにもあっさりと頷いて、もう一人の方の男が手近な木の根元に少女を下ろすのに、ばかりか自分を押さえ付けようとしていた男も思わず驚きに声を上げる。
呆気に取られ、動きも止めてしまったに跪くかの様にして視線を合わせると自らの胸に手を当て、男――萌黄色の髪のその人は、ゆっくりと口を開いた。
「貴女を捜す様に、と…風早から頼まれたのです」
「…風早…から…?」
無意識にその名を繰り返すに、ああ勿論耶雲からもですが、と付け加えつつ。
「…少なくとも、貴女の敵ではありません。信じて…頂けますか?」
まるで、先の自らの心を見透かされたかの様な、その言葉。
しかし、普通であれば警戒心を抱かなければならない筈の所で、逆に不思議な安堵感を覚えたのは何故なのか…。
自分の直感からか、それとも、つい先の話に上がった青い髪の自らのよく知る青年の名前故、か…それはどちらかとは知れない。
だが、少なくとも自分達を決して手荒に扱おうとはしない態度と、此方に問い掛けるその眼に嘘はないと、それだけは何故か無条件に信じられる気がしたのだ。
…否、もしかしたら心の何処かで信じたいと言う思いもあったのかも知れない。
何時だって先ず相手を疑い、騙し騙される事すら日常の一部だった。
けれど――母上様(あの人)が言っていた様に、今此処に居る自分があの頃の自分とは違うのだと言うのであれば…。
信じて、みたかったのだ。
かと言え、直ぐ直ぐにその考えを完全に切り替える事は出来ようもなくて、多少の戸惑いはやっぱり残ったが。
それでも、目の前の萌黄色の髪の青年の瞳を真っ直ぐと見返すと、小さく頷いては身体から緊張と共にふと、力を抜いた。
同時に全身を覆う酷い疲労には気付かない振りは出来なかったものの、せめて再び瞼は落ちてしまわぬ様に。
青年達によって馬上の人となってからも、鈍痛を伴う自らの腕を敢えて強く掴む事で、それだけは必死に耐えた。
*
その自分の決断が、間違っていなかったと知れるまでそう時間は掛らなかった。
馬に揺られる事半刻も足らずして下町を通り抜け辿り着いたのは、ここ数週間ですっかりと見慣れた、今では自らの家と言うべき場所になるのだろう、岩長姫の邸だった。
夜中なのに煌々と篝火が掲げられた門を潜り抜け、奥へと進む。
何処か邸内が忙しなく、騒然となっているのは気のせいではないだろう。
あらゆる部屋へと続く回廊に面した中庭にまで来た時、そこに佇む二つの人影を見て馬を止める。
「っ…良かった…見つかったんだな」
「ええ…町外れの森の納屋の前で。どう言う訳かこの少女も一緒に倒れていたので共に連れて帰って来た次第なのですが…」
「気絶しているのか?その服装からすると…何処かの采女、か…?」
「下働きの見習いか何かかとは…。見た限り、大きな怪我はない様ですが一度医師に診せた方が良いでしょう」
「そうだな…おい、済まないが――」
逸早く駆け寄って来た耶雲は、馬から降り、簡略に状況を説明した若草の髪の青年の言に頷き、気絶した少女を横抱きのまま引き受けると回廊の方へと声を掛ける。
初めから控えさせていたのだろう…耶雲の指示に従い数人の女官が姿を現すと少女を彼の腕から丁寧に預かり、一礼をした後足早に邸の中へと下がって行く。
その後ろ姿を見詰めながら、は漸くほっと安堵の息を吐いた。
…これで、良い。
あの女官達は耶雲の指示通り、この後直ぐ医師に少女を診せ、必要であれば介抱され…その一命は無事取り留める事となるだろう。
少女があんな目に合ってしまったのにも…元はと言えば、ある意味、その責任の大部分が自分にあると自覚がある。
だがこれで、少女の命は事なきを得たと言う事実に胸が掬われた様だった。
――と、
「おい、ちょっと待て。ならコイツも直ぐ診て貰った方が良いんじゃねぇか?」
背後でそんな声が聞こえたと思ったと同時に一瞬の浮遊感が不意に身体を襲う。
次には、よっと言う軽い掛け声と共に自身の足が地面に着いていて、自分を乗せて来てくれていた青年の手によって馬から下ろされたのだと遅れて気が付いた。
「恐らく、あの娘よりもコイツの方が怪我が酷いかも知れないぞ」
本人、必死こいて隠してるみたいだがな?と投げられる視線と言葉には思わず俯いてしまう。
「何?本当か??…、少し見せてみろ」
目の前まで来て目線を合わせる様にしゃがみ込みそう言うと、耶雲はそっと下げられたままのの腕を取る。
それだけで指の先から肩まで走る激痛に、だがは顔を背け唇を噛み締めるだけで決して声を上げようとはしなかった。
それは、声を上げる事で無様な自分を晒したくないとか、そんな掃いて捨てる様な物でしかない自分のなけなしの矜持の為なんかではなくて。
この様な状況を引き起こしてしまった…あの少女に対しても酷い目に合わせてしまったと言う、罪悪感が働いていたからかも知れない。
痛みなら、耐えられる。
だからこそ、これ以上彼らの手を煩わす様な行動は、どうしても取りたくなかったのだと思う。
その意志を汲み取ったのか否か…耶雲は僅かに眉を顰める―――と、不意に隣に来た気配に振り仰ぐ。
「風早……」
耶雲の呼び声に知らずビクリと肩を震わせる。
恐らく、今回の事で一番迷惑を掛けてしまったのは彼で。
胸中を大きくなって行く罪悪感と申し訳なさで余計に顔を上げられないままに。
しかし次に我が身を襲った衝撃に思わず頭が真っ白になった。
…時が、止まった気がした。
周囲の誰もが息を飲む気配を感じる。
やがてじわじわと左頬に上って来た痛みに、頬を張られたのだと漸く理解した。
無意識に頬を押さえつつ、のろのろと顔を上げる。
そこにあった思いもかけない表情には両目を見開いた。
…怒って、いるのだと思う。
だがそれ以上に――痛みを堪える様な表情で。
叩かれた自分よりも、叩いた当人である風早の方が余程痛いと言う様な、そんな物だった。
「…どれ程、心配したと思ってるんです…?」
何時も穏やかな普段から考えれば想像も出来ない程低く抑えた声に、何か答えなければと必死に言葉を紡ぐ。
「す…済みません…迷惑を、掛けてしまって…」
「そうじゃありません」
ぴしゃりと否定され、二の句を告げる事も出来ず…逆にの中に戸惑いが生まれた。
今回の件の原因は全面的に自分にあって…それで、この場にいる人全てに多大な迷惑を掛けたのはやはり自分で。
だからこそ謝りたくて…けれど、そうではないと言う。
ならば、一体何に対して―――
そんなの考えなどお見通しだと言うべきか、小さく嘆息を吐くと先程までとは多少苛立ちを抑える様にして風早は続けた。
「…迷惑だとか、そう言う事ではないんです。俺が言いたいのは…そう言う事なんかじゃない」
言いながら、先の耶雲と同じく膝を着き、真っ直ぐと視線を合わせて来る。
「は…一つ、思い違いをしています」
「思い、違い…?」
「は、もう独りではないんです…確かに、少し前までは独りきりだったかも知れない…。けれど、耶雲に助けられたあの日から…俺達に出会ってから…師君の娘となったあの時から―――もう、独りじゃない」
……自分は、何を…分かったつもりになっていたのだろう?
「少なくとも、俺や耶雲はの事を家族の様に思ってる…それは、師君だって同じ事だと思う…。だからこそ俺達は、俺は、の身に何かあれば不安になるし心配する。その身が傷付けば…同じ様に辛く、苦しいし傷付けた相手が許せなければ、怒りだって覚えるんです」
分かっていたつもりで実は、此処に至るまで自分はやはり何一つ分かっていなかったのだ。
今まで単語の上辺だけで知っているつもりでいただけで…それがどう言う物なのかさえ、本当の意味で分かってなどいなかった癖に…。
それを今この瞬間に、張られた頬の痛みなど比べるべくもない程に、何よりも強く現実として感じていた。
「それを………忘れないで下さいね…?」
独りとなったその時から、心の何処かで求めて止まなかった―――
“家族”と呼べる存在を…。
「ごっ、ごめ…んな…さいっ…」
胸の奥からせり上がってくる強い感情がある。
同時に喉元が貼り付きそうに渇いて、それでも伝えたくて声を出そうとしたら途切れ途切れにしか続かずに。
そんなの姿に一瞬瞠目するものの、すぐ困った様な笑みを浮かべると風早は申し訳なさそうに赤みが残ったその頬にそっと手を触れた。
「俺も…叩いたりして、すみません…痛かったでしょう?」
労わる様なその手の温かさに、目尻に溜まった涙が堪え切れずに溢れてしまう。
以前に…最後に、泣いたのは何時だっただろうか?
それすら忘れてしまう程前の事で、随分と長い間に泣き方すら覚えていないと言うのに、一度零れてしまったそれは止める事など到底無理だと言わんばかりに次から次へと流れ落ちた。
自分の内から解放され綯い交ぜとなった様々な感情が心の中で濁流となり、それが涙となって溢れ出ている様だった。
止めようと思っても、止まらない。
ひっと短い嗚咽を上げながら、それでも無意識に未だ涙を止めようとしているかの様なに微苦笑を浮かべて、風早は両手をその背に回すとしっかりと抱き締めた。
「…泣きたい時には、泣いて良いんです…」
「ふ……うっ……」
「――――本当に、無事で良かった…」
「っ……」
その言葉が皮切りとなり、は風早の服に縋り付いて声を上げて泣いた。
自分の背をあやす様に優しく撫でてくれる手に安心感を抱き、やがて泣き疲れて眠ってしまうまで―――
この日、この時にやっと…真実、自分は(じぶん)になれたのだと…そう、感じていた。
***
「まさか…あの子にあんなに怒られるとは思わなかった…」
「まぁ、怒りたくなる気持ちも…分からないでもないかな、俺は」
「………風早ってさ…」
げんなりとした感じでとぼとぼと歩きながら呟いて、その隣から返って来た言葉に胡乱気な目を向ける。
と、一瞬、何かに驚いた顔をした彼に内心首を傾げるが、すぐに普段の柔らかい笑みへと戻る。
「何ですか?」
「いや…………何でもない」
何となく脱力感を感じて、は言うなりがっくりと肩を落とした。
あの事件から約一週間程。
やはり、幾らかはゆるやかであったとは言え崖…と言うか、傾斜面を転がり落ちたのがいけなかったのだろう。
の左腕の骨にはひびが入っており、最低でも全治一ヶ月はかかると言う診断だった。
邸に帰って当初二、三日は熱も少し出ていたものの、それが治まれば左腕は固定の為に白布で吊っているので無理があるが、それ以外は特に支障もなくひょこひょこ動き回れる様になっていた。
我ながら自分の回復力ってある意味驚異的なんじゃないかと思ったり…。
まぁ、それはさておき。
その間もずっと一つ気になっている事があり、丁度様子を見に来てくれた風早に思い切って今日、聞いてみたのだ。
自分が助けた…もとい、巻き込んでしまったあの少女の事を。
すると驚くことに、少女は自らも住んでいるこの邸の采女の見習いなのだと言う。
そんなに近くに居たと言うのに今まで全く顔を合わした事もなかったと言うのも不思議な話だが、采女の、それも一介の見習いでしかない少女と岩長姫の義理の娘となった自分の立ち位置を考えれば、仕方のない事かも知れない。
少女は精神的ショックは多少あったものの、外傷は殆どなく、順調に回復へと向かっているらしい。
ならば、とは少女への見舞いを申し出た。
本当の所を言えば、あの事件にまで発展させてしまったのはやはり自分であり、助ける為と理由を付けつつも巻き込んでしまったのがずっと心苦しかった。
あの状況下でどれ程の恐怖を、あの子に味あわせてしまっただろう?
その事をどうしても謝りたくて、少女の居る采女達の宿舎である棟へと風早と共に先程、出向いたのだが―――
「そんな事…どうだって良いんですっ!」
危険な目に合わせてしまってごめん、と頭を下げただったが少女――壱予から放たれた言に驚きに目を瞠る。
「どうだって良いってっ……」
途中で思わず言葉が止まる。
此方を見る壱予の目尻には涙が浮かんでいた。
それだけに止まらず、自らを真っ直ぐ見詰める瞳の奥に込められた怒りの色に、それ以上を口にする事は憚られた。
「ずっと…私も考えていたんです。逃げていた時…助けてくれたあなたは、同じ位の年なのに…とても強い人だと思った。でも…それは私の勝手な思い込みでしかなくて…」
どう言えば良いのか、どうすれば上手く伝わるのか…そう考えながらも必死に言葉を紡ぐ。
「助けてくれた事は、本当に嬉しかった…感謝してもしきれません……。でも…もし私が助かっても、あなたが死んでしまったとしたら…そんなの全然嬉しくないっ…」
聞いているこちらが痛くなる様な声と頬を辿る涙が、逃れられない強制力を持って重い鎖となり、自らの心をぎゅっと縛り上げるかの様だった。
逸らそうと思っても、真摯な眼差しは、それをも許さないと言わんばかりで。
「…もう、あんな無茶な真似は、やめて下さい…絶対に……」
「………ごめん…」
声を荒げ、怒鳴られるよりも痛切な響きを持った壱予のその言葉に、は唯一言、謝る事しか出来なかった。
…先に風早が言った通り、確かに壱予も怒っていたのだと思う。
事件直後、温厚なこの青年が怒りを表したのと同じ様に、壱予が先程訴えていたのも、全ては自分を心配してくれての事だ。
それは、今まで生きて来た中で決して向けられる事のなかったものであり、それを与えてくれる存在が居ると言うのは正直、嬉しかった。
だが…同時に、自分がそんな感情を向けて貰えるに足る人間であるか問われれば…答えは、否だ。
これを言うと又怒られるに違いないのだと思うのだが、残念ながら何の躊躇いもなくそう言い切れる自信がある―――少なくとも、今は。
事件の後、落ち着いて来てからずっと自分の心の中で燻っていたのはこの事だった。
『とても強い人だ』と…『でもそれは勝手な思い込みでしかなかった』と…。
そう言った壱予の言葉は正しい。
自分は、強い人間なんかじゃ決してない。
唯今まで生きて行く為だけにして来た事を、今回だって惰性的に実行したってだけで…。
本当に強い人間って言うのは唯力のみではなく、言うなれば、どれ程自分が傷付いたとしてもそれでも人を思いやる事が出来る…そんな心根を持った壱予の方が、余程強いのだと思う。
彼女との会話の中で、自らを心配してくれる事を嬉しいと感じるその傍らで、壱予と言う少女の在り方がとても羨ましく感じた。
そして…ただ羨ましく思っているだけでは、何も変えられないのだ。
壱予や風早達から向けられるその想いに応えられる人間で在りたいのなら………自分がすべき事は、もう決まっている。
そこまで考えて、はふと小さく苦笑する。
この短期間に、驚く程自分自身が変化していってる気がする。
それは良い事なのか、悪い事なのか…いや、恐らく前者なのだろうと、そう思いたい。
少し前までの自分であれば、凡そこんな事を考える日が来ようとは予想すらしなかっただろう。
だがそう思う自分ですら、紛れもなく自分自身の意志であるのだから仕方がない。
結論が出たのなら、後は前に進めば良い…たった、それだけの話だ。
「ねぇ、風早……」
「何です?」
「今日って岩長姫は…居られるのかな…?」
「師君なら…もう一通りの執務を終えられて帰って来られてる頃合いですね………会いに、行きますか?」
…この青年は、何処まで自分の事を見抜いているのだろう?
その金の瞳の前では、嘘や偽りなど何の意味も持たない気にさせられる。
今ですら既にそうなのに、恐らくこれからも風早にだけは頭が上がらないんだろうな…とそう確信しつつ、は彼の言に頷いたのだった。
*
扉を軽く叩けば誰何の声が掛かる。
それに名を名乗り、一言断ってから中へと入る。
そこには予想していた耶雲や岩長姫の他に、もう二人、見覚えのある姿があった。
「おや…?貴女は…」
「何だお前、もう怪我の方は…って、まだそっちは無理そうだな」
腕を吊る白い布を見やり、でも、まぁ歩き回れる位には良いのかと続けるのに、ええ…と苦笑を浮かべるとは二人の方に向き直った。
「その節は助けて頂いて…ありがとうございました」
「いいえ…礼を言われるには及びませんよ。しかし…貴女が噂の、師君の義娘君だったのですね」
噂の、って一体どんなのが流れてるんだ?とかふと思ったものの敢えてそこには触れないでおく。
「はい、まぁ、一応…。あ、私の名前はと言います」
「、ですね。私の名は柊と、お呼び下さい。それでこちらは羽張彦…」
「柊さんと、羽張彦さん…」
「あー…さん付けはなしの方向で頼むわ。堅っ苦しいのは苦手でな…柊も、そうだろ?」
「そうですね、何処か他人行儀な感が否めませんし…さえ良ければ、どうぞ呼び捨てで」
「はぁ…そう言うものですか?」
「そう言うもんだ。取り敢えず、改めて宜しくな?しっかし…小さいのにしっかりしてるんだな、お前は」
何故か感心した風に言う若草色をした髪の、事件当時、自らを運んでくれていた青年――羽張彦の言にいやいやそんな事はないですよと首を振れば。
そんな謙遜をする事でもないかと…と、萌黄色をした髪の、もう一人――柊がそう続ける。
風早に聞いた所、この二人も同じく、岩長姫の門弟であるらしい。
柊は風早とほぼ同じ時期に、羽張彦は耶雲と同年に入ったと言うのだからある意味、古株と言っても良いかもしれない。
と言う事は、つまり………。
二人と和やかに会話していると、控え目な咳払いが耳に入る。
「……」
眉を寄せ、何処か困った様な表情を浮かべこちらを見る耶雲に、小さく笑ってみせる。
心配する色と、何か言いたげでありながらしかし、この場で口にするのはどうにも憚られるのだろうか。
柊や羽張彦は知らないが、あの時、同じ場所に居た耶雲と風早は知っているが故に、無闇に触れるべきではないと判断したのか…。
しかし耶雲とは違い、風早は…何故か自分がこれからする事を分かっているかの様な眼差しで、まるで見守るかの様に柔らかな微笑を浮かべていた。
それに背を押された訳でもないが…は先程からじっと向けられているもう一つの厳しい視線に向き合う為、顔を上げた。
元々、この部屋に訪れた本来の目的を、自分自身の手で果たす為に。
「……………で?話は終わったのかい?」
たっぷりと間を開けて漸く口火を切ったその声は、沈黙が降りていた室内に静かでありながら、酷く響いた気がした。
「私が前に、あんたに言った事は覚えてるんだろう?それなのにこうしてのこのことこの部屋にその顔を見せに来たってのは……勿論、分かってんだろうね?」
『今の自分として成すべき事を考えろ。それが出来るまでは顔を見せるな』
そう言われたのは、ほぼ一週間前の事だ。
その直後、皮肉な事に例の事件に遭遇してしまった訳だが…。
だが、そのお陰で…色々と自分なりに考える事が出来たと思う。
あの時岩長姫が言いたかった事も、今の自分であれば確実とまでは行かなくとも、分かる気がする。
そうして、それに対する自分が出した答えも……。
「さて……なら、聞かせてもらおうかい。…言ってみな」
ひたと見据えられた、老齢ながら強い光を秘めた岩長姫の目を見詰め返していたは次の瞬間、すっと頭を下げた。
突然の行動に、沈黙を守るものの少なからず動揺が走る気配がする。
それでも当事者でない彼らの、誰もが声を出さなかったのは流石と言うべきなのかも知れない。
そんな綱渡りをしているかの様な緊張感の中で、は頭を下げた状態のまま口を開いた。
「………強く、なりたいと思います」
「………」
「今まで自分は…独りだった…。でも、死ぬ筈だった所をこうして拾って貰えて、その上暮らす所も、生きて行く場所も与えて貰えて…私は独りじゃなくなりました。でも、それでも…それを心から信じる事が出来なくて…多分、独り切りだった自分の身の上に甘えていたんだと思います」
自分は実の父にも母にも捨てられて…独り切りで生き抜いて行くのが日々、精一杯で。
そんな生活を暮らして来た自分に、成すべき事がある、すべき事がある等と言われても、生きるだけでも苦しい思いをしてくるしかなかったのに、それ以上に自分に何が出来るのかと…。
そんな物などありはしないと、初めから諦めて、それを過去の自分の生き方のせいにして他に目を向けようともせず…その状況に甘んじてただけだった。
「町で壱予と言う少女に出会って…性質の悪い男達に絡まれてる彼女を見て…助けたいと、自然とそう思いました。けれど実際にはそんなに簡単に行く筈なんてなくて……」
結果、風早達の手で救われたものの、自分は彼女を危険な目に合わせただけだった。
その事を思い出して、胸がツキリと痛む。
「自分は取るに足らない…弱い人間なんだって、思い知りました。だけど…風早達も、彼女も…心配してくれるんです…こんな弱い、自分なのに」
ふとそこで浮かべた笑みが、まるで泣いている様にも見えたのは気のせいか。
だが自らそれに気付く事なく、は続ける。
「優しい感情を、惜しげもなく自分に向けてくれる…そんな彼らが、私は凄く大切に思えて…。もしもこの先、大切な彼らに何かあったとしたら…私は、それでも手を伸ばしたい。彼らが優しい感情を向けてくれるのであれば…それに値する人間でありたい。……誰にも、自分にも恥じる事のない様に…後悔する事のない様に、私は強くなりたい……」
そしておもむろに垂れた頭を上げると、は真っ直ぐと岩長姫の目を見詰めて、告げた。
「だから……私を、弟子にして下さい」
これが、なりに考え、見出した答えだった。
きっと、完全な回答には程遠いものでしかないかも知れない。
だがそれでも、願望にも似たこの答えを出した事を後悔する事は、この先も訪れないのだろう。
暫く黙したまま何を言うでもなく、ただ自分を見ていた岩長姫はやがて深く長い溜息を口から吐き出した。
「…それが、あんたの出した答えかい」
「はい…」
首肯するにもう一度だけ嘆息すると、傍らの耶雲に視線を投げる。
「なら…そうさね、明日から耶雲について基礎から学びな。あー武術の鍛錬もするとなると…その辺は先ず、羽張彦は………どうだろうねぇ?」
「っ…じゃあっ!?」
師君、俺の名前出しときながら何でそこで疑問形になるんですかっ!?と騒ぐ弟子の声は無視するとして。
自分の言葉に反応して次第に顔を明るくする義娘の姿に思わず苦笑を零す。
「―――義娘のたっての願いだってのに…叶えてやらない親が何処にいるってんだい」
「あ、ありがとうございますっ!岩長姫っ!!」
言うなり、一気に喜色満面となり心底嬉しそうに笑うの姿を見て、温かい気持ちが湧き上がる。
この子が笑う所を見るのは初めてなのだと、考えてみればそんな単純な事に今更気が付いた。
…これが子を持つ親の気持ち、ってヤツなのかねぇ…?
そうであったとしても、この子が笑った顔を見れた事が嬉しかった事実に違いはなく。
本当、参ったもんだと一人ごちながら、岩長姫は苦笑を深くした。
「…大体、予想通り…と、言った所ですか?風早…」
師君に許しを得て喜ぶの姿を横目に、ふとそう話し掛けて来る柊に風早は困った様に笑って見せた。
「予想通り…と言うか、まぁなら乗り切れるだろうとは思ってたんだけどね」
そう…確信はあった。
彼女の口調が変化し始めたその時から。
丁度、壱予を見舞った後位からだろうか?
それまでは少し怖々と言った感じで敬語を使っていた彼女が、完全にではないが少しばかり砕けた物言いになっていた事と…何より、自分を呼ぶ時にさん付でなくなっていた。
自身は無意識の内だったのかも知れないが、恐らくそれは彼女の内面の変化と連動しているのではないかと思った。
迷いをふっ切ったとか、何かの覚悟を決めたとか…そう言った類の物ではないか、と。
「だからそう、心配はしてなかったんだけど…どんな答えを見出したのかまでは、分からなかったから…」
だが、そんな心配ですら彼女の今の笑顔を見ると杞憂でしかなかったのだろう。
「…不思議な子ですね」
ぽつりと柊が呟く。
見る限り、普通の子らと何ら変わらないと思うのだが、しかしその笑顔には自然と人を惹き付ける力があるかの様に感じられた。
「と言うより…良い子、ですよ」
「良い子………ですか」
言いながら、ちらりと横目で隣の、その顔を見やる。
…この男は、今どう言う風な顔で、その“良い子”だと評した少女を見ているのか…分かっているのだろうか?
「…柊?」
どうかしたのか?と首を傾げる彼に自身の視線の意図が読まれるよりも早く、思考を霧散させると口元に笑みを刻む。
まぁ、気付かないのなら気付かないで…それも一興でしょう…と頭の端で考えつつ、頷いて見せる。
「確かに…否定はしません」
柊の遠まわしな同意に小さく笑って、再びへと視線を戻す。
ああ…
願わくば、その笑顔が…この先も曇る事がなければ良い―――
そんな想いを抱きながら、風早はまるで眩しい物でも見るかの様に、そっと瞳を細めた。
***
聳え立つ山とまでは行かないまでも、周辺よりは高い位置にある切り立った崖の端。
視界を遮る物は何もないそこは、遥か遠く、地の果てまでをも見渡す事が出来る。
緑溢れる山野や草地であればまだしも、荒涼とした大地はあらゆる生物を拒絶しているかの様にも見える。
だがそれを厭う事なく――いや寧ろ…そんな考えすら持ち合わせていないのかも知れない――一人の青年がその場に佇んでいた。
時は夕刻。
眼下に広がる裾野の先より続く町並みも、築き上げられた城砦も、全ては逆光によって黒くその存在を浮き上がらせている。
遠き地平へと沈み行く太陽へか、それとも目の前に広がる情景へか…ただ、その全てを眺めるだけの人影の背後に、不意に“影”が生まれた。
“影”…と言うより、“闇”と言った方が正しいだろうか?
決して、今正に沈みゆく陽光のせいではなく突如として生じた闇は、急速に膨張したかと思うと凝縮し、凝ったそれはもう一つの人の形を成した。
崖に佇む青年の数歩手前まで歩み寄ると、その人影は唯、青年に控えるかの様に並び立つ。
背後に現れた気配に別段驚く素振りすら見せず、青年は振り返る事もせぬまま口を開いた。
「……………事なきを得た、か……」
それは、問いでも確認でもなく…確信であり、結果だった。
何も言わなくても、青年は全てを知り得ている。
故に、今この場での問答は意味をなさない様に思えた。
だが…ふと、青年はその問いを口にする。
「…お前は……愚かだと思うか…?」
誰が、なのか…何に対して、なのか…それは言われなくとも察する事は出来た。
しかし――答える事は躊躇われた。
自分は知っている…彼がこれから何をしようとしているのかも、彼が何を求めているのかと言う事も…。
それを知った上で答える事は、少なくとも今の自分には判断出来ない。
その、真に意図するべき所を分かろうともせず、ただ傍から見るだけに止めようと言うならば、彼の行動は確かに愚かでしかないのかもしれない。
だが…その愚かさを知っている上で、それでも尚自らの希求する物の為に敢えてその道を選ぶとするならば…それは愚かだと、誰が言う権利を持つだろうか…?
黙したまま話そうとはせず、しかし確かな戸惑いを帯びた気配に青年は少しだけ振り返ると微笑った。
…元々、自らの問いに答えなど求めるつもりはなかった。
この世には完全に正しい答えなど何一つ存在せず、そして自分はもう既に決断を下し、動き始めている。
気が狂いそうになる程の長い長い時を繰り返して来たその先で、漸く見つける事が出来た唯一の為であれば…手段ですら厭わないだろう。
それが、愚かであろうと、なかろうと…
「………止まる事など、――ない…」
ぽつりと呟かれたそれは、決して揺るがぬ固い意志の響きを含んでいた。
青年は再び視線を戻す。
その夕焼けを溶かし込んだかの様な紅の瞳に映るのは、沈みゆく陽光に染められた眼前の景色か、それともこの世界そのものか…或いは、彼が強く強く願い、追い求めて止まない…唯一の、姿か―――
賽は、既に投げられた。
全てに始まりは告げられ、そして誰一人として逃れる事は許されない。
ころころと転がり落ちたその先に出た目がどんな未来を指し示すのか……この世界の誰もが、知る由もなかった。
2011/06/03.
序章・了.