「あ、あの…じ、自分で出来ますから……」
床から起床してからすぐ、それを見計らったかの様に戸を開け、頭を下げてから楚々として入って来た
女官二人が着替えを手伝おうと寝着に手を掛けて来るのに慌てて言い添える。
だが、押し止めようとした手は、逆にやんわりと制された。
「様は血が繋がっていないとは申せ、もう岩長姫様の御息女様であらせられます。お召し換えのお手伝いをさせて頂くのも当然の事で御座いますれば…」
「いや、…でも…」
確かに、立場的に――これまた未だに信じられない話だが――岩長姫の娘とはなった。
だが己が元々どう言う人間なのかを考えれば、こんな事をして貰える程の者などではないと…自分はよく知っている。
だから、必要ないと反論しようとしたものの、二人の女官はにっこりと美しい笑みすら浮かべの先を
遮った。
「私共の気遣いなれば、無用で御座います」
「これが、私共の務めで御座います故」
きっぱりと言い切られ思わず口籠る。
務め、とはこの二人に課せられた生業…その額面通り、生きて行く為になさねばならない仕事、だ。
それを拒否すると言うのは、彼女達の仕事を奪う、と言う事で。
…その単語を出されると意味する所が分かるだけに、それ以上は言えなくなってしまう。
こんなやり取りが続いて早一週間――
都の中央にある橿原の宮のほど近くに建つ岩長姫の邸に入ってから、自身の傷の療養期間も含め、既に
数週間が経とうとしていた。
序章 其ノ三 持ち得るだけの強さで
着替えを済ませれば、これまた流れの様に順々に目の前へと朝餉が用意される。
この内容も今までが口にした事のない物ばかりで、それを食べ終えたら又も見ていた様に入って来た
女官がてきぱきと片付けてしまう。
そうしてしまうと次は昼餉の時間まで特に何もする事もなく、唯部屋で漠然と過ごすのがこの邸に来てからの、
ここ数日のの日常だった。
だが今日は…少し前から決めていた事がある。
女官達が膳を持ち、完全に退出して行くのを見送ってからその場に立ち上がると自らも戸口へと向かった。
回廊を抜ければ直ぐ、目的の部屋は見えて来る。
邸の最奥に位置するそれは、そうは言っても、に与えられた部屋からはそう遠くない。
扉の前に立ち、一つ、深呼吸をしてから来訪を伝える為に木製のそれを軽く叩く。
「―――開いてるよ」
殆ど間を置かず、内側から聞こえて来た声にそっと扉を押し開いた。
「…?どうしたんだ…傷の具合はもう良いのか?」
丁度、報告か別の話の途中だったのだろう…何かの資料かと思しき紙面を手にした耶雲の言に小さく頷く。
「もう殆ど、痛みもないので…大丈夫です」
「そうか…それなら良いんだが…」
ぎこちないまでも微笑を浮かべ、答えるに耶雲は安堵の息を吐くと共に内心、苦笑した。
が生き倒れていた所に遭遇したのは他でもない耶雲自身だ。
故に、見える範囲でも彼女の身体中に負っていた傷が深くはないとは言え、あのまま放置していれば何れ時を待たずして致命傷に至る物であった事をよく知っている。
事実、左肩背面部の傷は中でも一番酷かった為、初めの内はそれが原因で何度か熱を出していた。
幸い、今では漸く――未だ左肩も含めて幾つか包帯を巻いている箇所はあるが――こうして歩ける程まで回復し、痛みも殆どなくなったと言えど、耶雲が心配するのも無理はない。
それを考えると少し、心苦しくなる。
「すみません…気を使って頂いたのに…」
「いや、お前が謝る必要はないだろう?それに、俺には敬語はいらないと言った筈だがな…」
苦笑混じりのそれには慌ててぶんぶんと手と頭を横に振った。
「いえっ、その…やっぱり目上の方ですし…」
「遠慮なら、するなよ?」
まぁ無理にとは言わないが…と付け加えられるのに、はいと小さく頷くものの。
やはり、慣れない、と思う。
目上だから、と言うのは嘘ではないし、礼節を尽くすのは当たり前だ。
だが…初めてなのだ。
この邸に来る前…助けられたあの夜よりも、もっと以前――毎日を生きる事にだけ必死だったあの頃。
他愛なく、遠慮もなく、話せる相手などこの方なかった。
そう言った友人と言う物も――だからと言って耶雲達との関係も、それとは又違うと思うが――作る暇すら
なかったのだ。
だから敬語はいらぬと、呼び捨てで良いと急に言われても、戸惑いもするし…正直、怖い。
そうする事で失いやしないかと考えてしまうのだ…初めて、故に…。
何れは慣れては行かないといけないのだろうが、その先は長く思えた。
「全く…仲が良いのは何よりだけどねぇ…、私に何か用があったんじゃないのかい?」
呆れた表情で口を開くこの部屋の主…岩長姫の言に、はたと本来の目的を思い出すと慌てて居住いを正す。
「す、すみません!!」
「申し訳ありません…師君」
「だから、別に謝る必要はないって言ってんだろう。…それで?一体何の用だい?」
改めて問われるのに、話そうとして、止める。
言うべきなのか、言わざるままでいるべきか…此処に来て先日まで迷っていた自分が蘇える。
だが、…もう決めた筈だ。
決めたからこそ、自分は此処に来たのだから…。
暫しの逡巡の後、は迷いを振り切る様に顔を上げた。
「母上様…いえ、岩長姫様……お願いが御座います」
微妙な言い回しのそれに、岩長姫の眉間が僅かに寄る。
「…何だい」
「私に…仕事を下さいませんか?」
「……………………は?」
反応までかなりの間があった気がする。
しかし、それを気に留めずには床に両手両膝を着けると頭を下げた。
「雑用でも下働きでも構いません。そう言った類でしたら経験がありますので少しはお役に立てると思います。
ですから…」
ここ数日、考えていたのはこれだった。
幾ら国を護る四道将軍の娘になったとは言え、自分はやはり根本的に取るに足らない者である事に変わりは
ない。
それを将軍の娘だからと状況に甘え、女官や下男に傅かれるのは何かが違うと思うし、元々が性に合わない。
だからこそ、拾われ命を救われた恩を返す為にも自らが出来る事をする……そうして出て来たのが、この答えだったのだ。
叩頭するを見、どうしたものかと自分の師の方へと視線を向けて思わず一瞬固まる。
…先程までの雰囲気とは明らかに変わってしまっている。
頭を下げたままのは気付いていない様だが、その身を取り巻く空気が徐々に、だが確実に冷たく厳しい物へと変じて行くのが手に取る様に分かる。
こう言う時の師君は、かなり、“きている”のだと言う事が、弟子となってからの経験上身に沁みて知っている。
「、兎に角――」
頭を上げるんだ、と場を取り成す為にも耶雲が言いかけた言葉はしかし、最後まで続ける事は叶わなかった。
「師君、失礼します」
こんこん、と二回扉を軽く叩いてからそう言い置いて中へと入る。
と、途端、だんっ!!と室内に響いた音に目を丸くする。
中に居たのは師君と、何故か床に両膝を着いていると…そして少し離れた位置に立つ耶雲の姿に
気付くと、一体何事があったのかと視線を投げるが唯、小さく眉を寄せ首を振るだけで。
風早は渦中に居る、当事者である筈のの背へと目を向けた。
「……仕事を下さい、だって?」
机を叩き付けた手はそのままに、暫しの沈黙の後、ゆっくりと岩長姫は言を紡いだ。
「甘ったれてる事言ってんじゃないよ!!」
恫喝が一つ。
びくりとしては反射的に顔を上げ、向けられる眼差し…その語気はおろか全身から滲み出ている怒気に
思わず息を飲む。
「経験がある…確かにあんたの境遇を考えれば、そうやってこれまで生きる為に働いて来たんだろう事は
容易に分かるってもんさ…だけどね」
一度そこで区切ると針よりも鋭い視線に射竦められた。
「あんたみたいなひよっ子に任せなくたって女官も下男も足りてるよ」
「師君っ!幾ら何でもそんな言い方はっ…」
余りの言い分に口を挟んだ耶雲だったが、それは呆気なく黙殺される。
「ちょ、ちょっとした雑事で良いんです!!」
「あんたは下の奴等の仕事を奪おうってのかい?」
淡々とそう返されて今度こそは何も言えなくなった。
そんな義娘の姿に厳しい態度は崩さぬまま、内心小さく溜息を吐く。
「…私は、何もそんな事をさせる為にあんたを拾ったつもりは毛頭ないよ」
そもそもがそのつもりであれば、態々拾ってくる必要もなければ見向きとてしなかっただろう。
それをあの日、この娘を自らの養女とすると決めたのは――
「あんたは…もう生きる為だけに生きて来た今までとは違うんだ。今のあんたとして、すべき事はもっと別にある筈だよ」
「で、でも……それなら、何を…」
何を、すべきなのだと言うのだろうか?
自分が出来る事等たかが知れている。
それでも考えて、考えた末に出した答えすらいとも簡単に切り捨てられた。
だとすれば一体、自分はどうせよと…?
ちらりと横目に見られて、だが視線は興味もなさそうにすぐ様逸らされる。
「…自分が何を成すべきなのか…そんな事、自分で考えな」
それが出来るまで、その顔見せに来るんじゃないよとまで言い置かれ。
は唯茫然としてその場に項垂れるしかなかった。
*
――気を使った風早がを連れて出た後、重い溜息と共に耶雲は沈黙を破った。
「…少し、厳し過ぎやしませんか?」
向けられる弟子の視線に含まれた幾許かの憤りを見て、岩長姫はやれやれと言った具合に呆れ半分の
苦笑を浮かべる。
「あんた達は逆に過保護過ぎると思うがね」
それを考えれば丁度良いんじゃないかい?等と続ける師の言に思わず眉を顰めた。
「しかし…はまだ傷が癒えたばかりで…先程の事だって、余程考え抜いた上の事でしょう。それをあんな
無碍に…」
「そう思うんならあんたこそあの娘の事侮ってるんじゃないかい?それに、ちゃんと私は答えてやったさ…
あれ以上に何を言えってんだい?」
「ですがっ、…」
尚も噛み付こうとする耶雲を一瞥だけで制すと、岩長姫ははっきりと言い放った。
「――これで何も出来ない様であれば、あの娘もその程度だったって話さ。…その時は、私も耄碌したって
事だろうね」
「師君…」
後半、自嘲が入り混じったそれに込められた想いが分かる故に、それ以上はもう何も言う事は出来なかった。
***
「…大丈夫ですか?」
呼び掛けられて、はっとして顔を上げる。
賑やかに多くの人が行き交う町中と、目の前に覗き込む様にされた心配そうな風早の顔に二、三度瞬いて、
漸く我に返った。
「だ…だいじょう、ぶ…です」
何処か上の空だった感じからして…恐らく先程の事が尾を引いているのだろう。
歯切れの悪い受け答えや――その自覚がないのか、どうか――何時もより少し沈んだ様な面持ちが何よりも
雄弁に物語っている。
あの後、丁度下町に買い出しに出る用事の為、邸を数刻離れる許可を貰いに師君の部屋を訪ねていた事も
あり、流石にあの状態のままで放って置く事も出来ずに、気分転換も兼ねて共に下りて来たのだが…。
…やっぱり、そう簡単には行かない、か…。
師君の言は厳しくはあるものの、間違いはなく道理だ。
だとしても、直ぐ直ぐに自らの答えなど見付けられる問題でもない。
「そんなに焦らなくても、良いんじゃないかな…」
「え…?」
「焦らずとも、答えなんて人それぞれに違うと思うし…そう言う事は自ずと見出す時が来る筈だから」
「そう…なんですか?」
自分のはもう癖だから仕方がないとして、未だ変わらず自分にも敬語で問ってくるのに苦笑しつつ頷き返す。
そう…これは己や耶雲…他の同門にも言える事だが、岩長姫の弟子であれば誰もが一度は通る道だ。
そして、誰もが確かな答えを出せないままに、未だ迷いの中に居る者もいるのではないだろうか――自らも又、
そうである様に。
「ゆっくり考えて、見付けられたら良いと思うよ、俺は」
自らの言にそう、ですねとぎこちなくはあるが小さく笑って答えるのに少しばかり安堵する…と、目当ての店が
見えて来た事もあり、此処で少し待っていて下さいね?と告げ、そのまま店内へと歩を進めた。
風早の後ろ姿を見送ってから、邪魔にならない様に店先の脇へと移動しては無意識に繰り返していた、
今日何度目かの溜息を零す。
…大丈夫か、と聞かれれば、大丈夫…なのだと思う。
岩長姫の言葉に衝撃を受けたのは確かだけれど、こうしてまだ思考する力が残っている所を見れば、まだ
マシなのだろう。
…焦っている…訳では、ない…。
唯、分からない。
全ては、岩長姫に言われた通りだ。
今まで自らが生きる為だけに生きて来た。
汚い事も、醜い事も、端貨とも言えない位の銭しか貰えない、仕事とも言えない様な雑事であっても、それこそ
日々その日を生きる為…。
そんな日々が終わる時が来るなんて、死を迎える他に考えた事すらなかった。
安穏と、暮らす事が出来る日が来るなど…。
――だから、分からない。
想像すらつかない。
卑下する訳でもないが、こんな何の変哲もない自分如きにすべき事が…成すべき事があるなど、到底――
「は、離して下さいっ!!」
と、行き成り聞こえて来たそれに思考を止め、反射的に顔を上げる。
「ああ?聞こえねぇなあ?元々ぶつかって来たのはお前の方だろうが、ええ?」
続いて上がる明らかに柄の悪い声と、少し先で繰り広げられている光景に思い切り顔を顰めると不快さを隠そうともせずに、は躊躇なく其方へと足を向けた。
「や…やめて下さい!返してっ…」
どうして、こんな事になったのだろうか?
自分は何もしていない筈だ。
…今日も朝早くから起床して、邸の掃除から始まる自分に課せられた仕事をこなしていた。
それは少女にとって何時もの事で、普段と変わった事と言えばその途中、先輩から珍しく使いを頼まれたと
言う事位だろう。
下町の職人に依頼していた品物を、代わりに取りに言って欲しいと言う話で。
断る理由もなく引き受けて、無事職人から品物を受け取り、邸へと戻る帰り道での事だった。
…往来を歩いていて、前からやって来たこの男達に絡まれたのは。
自分は避けようと端に寄ったのにも関わらず、男達の方がわざとらしくぶつかって来たのだ。
それに対して謝罪をしたのに男達は最初から聞く耳も持たず、更にはこうして少女が抱えていた品物を
取り上げ、手の届かない高さにまで掲げ、にやにやと下卑た笑みを浮かべている。
「ぶつかって来たんなら普通はちゃんと謝礼を出さないといけないよなぁ?これなんか丁度お誂え向きって
所じゃないか?」
「…っ、返して下さい!それは大事な物なんです!!」
本当は…怖い。
だが、ここで引いてしまえば、頼まれた品物を持って帰れなくなってしまう――
そんな思いから両手を握り締め、震える声で言い返す少女に男の内一人の目の色が変わる。
「このガキっ…生意気言ってんじゃねぇぞ…少しは痛い目見ないと分からねぇみたいだなぁっ!?」
暴言と共に振り上げられる拳に恐怖から思わず目をぎゅっと瞑った。
殴られるっ…――
しかし、痛みに悲鳴を上げたのは当の少女ではなく、拳を振り上げた男の方だった。
「うごっ!!?」
背後から膝の関節の裏側を力の有らん限り、思いっ切り蹴り飛ばされ、蛙の潰れた様な声と共に
前のめりとなって少女の脇へと倒れ込む。
「えっ…!?」
「てめぇっ、何しやがるんだこの野郎がっ!!」
其処に立っていたのは少女と同じ位の年頃の少年で。
否、服装が男っぽい物を着ているだけで、野郎じゃないとむっとしている所を見ると少女…なのかも知れない。
「ふざけてんじゃねぇぞこのガキっ!!」
一人やられた事で頭に血が昇ったらしい。
別の男が殴り掛かって来るのをひょいと素早く避ける。
その隙には先程倒れた男が放り出した品物を受け止めたのを片手に、立ち尽くしたままの少女の手を取り
その場から駆け出した。
「…こっちだ!」
少し行った所で往来から裏路地へと入る細い道へと曲がり込む。
こう言う大通りがある町の場合、整然とした表側とは逆に裏手は複雑に入り組んでいる事が多い。
それはこの都の下町でも例外ではなかった様だ。
追い掛けられているのは、罵声と数人の足音で振り返らなくても分かる。
大人と子どもの足の速さにだって限界がある事も重々承知の上。
それでも逃げ切る為に何度も何度も角を曲がり、最終的に多数に分かたれた細道の端に積んであった木製の樽の影に飛び込み、身を潜めると息を殺す。
目の前を男達が通り過ぎて行くのをやり過ごし、その声と足音が聞こえなくなるまで待ってから。
そっとだけが顔を出して辺りを窺う。
気配が完全になくなったのを確認して、漸く安堵の息を吐いた。
「もう、大丈夫だと思うから…」
そう告げて、少女の手を引き樽の影から出ると往来に向かって歩き出す。
「あ、あのっ…」
「?」
やはり先程までの緊張感から解放されたからだろうか?
ここに来て、少女の声を初めてちゃんと聞いた気がしながら振り返る。
それでも未だ若干、周囲への警戒を解かないまでも、何?と首を傾げたに対して。
少女は気持ち的にも落ち着く為にも、一つ、深呼吸をすると、ぱっと笑顔を浮かべた。
「助けてくれて…ありがとう」
「いや、別に……」
大した事じゃないし…と呟くにぶんぶんと首を振る。
「ううん…あなたって、強いのね」
思わぬ言葉が出て来て、一瞬、固まってしまう。
…強い?誰が?
……自分、が?
「そんなんじゃ、…ないよ」
…そもそもが、そんな話じゃない。
大の大人が寄って集って、それも数人で一人の少女をたかりの餌にしていたのが気に食わなかった。
見るからに弱そうな者を狙うのは、何処に行った所で変わりはしないのだろうか?
そんな光景が嘗ての自分と被って、そして見て見ぬフリをする周囲の人間も同様で…。
唯、その状況に無性に苛付いただけだ。
だと言うのに――
「それでも…本当にありがとう…」
再度真っ直ぐに見詰められ、嬉しそうに笑って告げられる感謝が何処かくすぐったく。
初めて感じる様なそれに戸惑う自分を隠す為に、少女から視線を外した。
…その時の自分は、後から考えても、かなり動揺していたのかも知れない。
細い路地を抜け、往来まで戻って来た所で明らかに気が緩んでいたんだと思う。
ここで少女を一人で帰すのも何だから、風早に事情を説明して近くまででも送るべきかも知れない。
そんな事を考えつつ、辺りを見渡すと彼の入って行った店は自分達が居る場所よりも少し先にある様で。
丁度良く店から出て来た風早の姿を目に止めたが、その名を呼ぼうと口を開いた、その時―――
「風はっ――!!?」
最後まで言い終える事も出来ずに背後から口を塞がれる。
同時に羽交い絞めにされて、動く目線だけで少女の方を見れば他の男の手の中でぐったりと力無く
気を失っていた。
動く視線で捉えたその顔は、先程少女に絡んでいた連中の一人で。
しまったと思った時には既に遅く、の首にも容赦なく手刀が下ろされる。
「全く…てめぇらこんなガキ共に何手間取ってやがるんだ!ずらかるぞ!!」
背後から聞こえる声が遠くなって行く。
先刻の奴等が仲間を呼んだのだろうか…?
しかし、それすら確かめる事も出来ぬまま、くそっと小さく呻いたのを最後にの意識はそこで途切れた。
*
「お待たせしました。済みません、遅くなってしまって…って、………………?」
待たせてしまっているの為に、店主との話を早目に打ち切り店から出た来た風早の言葉は、しかし。
その相手を捕える事すら出来ず、唯虚しく、風へと消えた――
***
次に目が覚めた時、そこは何処かの小屋か納屋の中の様だった。
辺りは小屋が閉じられてしまっているからだけではない暗がりに沈み、既に夜が訪れている事を告げていた。
少し節々が痛むが…それは無造作にこんな所に寝転がされていたからだろう。
そこまでぼんやりと考えて、はっと自らが気絶する前の状況を思い出し慌てて辺りを見回す。
と、直ぐ隣に同じ様に寝転がされている少女を見つけて、はほっと胸を撫で下ろした。
…とは言え、このまま悠長にしている訳にも行かない。
何とかして逃げ出す術を考えなくてはならない…それも、自分達を捕えたあの男達が気付かない内に、だ。
暗闇の中、じっと眼を凝らせばその暗さに今度は眼が慣れて来る。
そうして小屋の中を見渡し、目の端に映ったそれに、は身体を起こすと其方へと近付いた。
少し錆びている様だが、何もないよりはマシだ。
片隅に無造作に置かれていた鎌を使って両手を縛る縄を何とか削ぎ切る。
同様にして、隣に倒れている少女の頬を軽く叩いて起こすとその縄も素早く解いてやる。
「ここは、一体…?」
「恐らく…あの男達に捕まったんだと思う…」
ごめん、私が油断したから…と呟くに、少女はふるふると頭を振る。
「そんな事、ないですから」
言って微笑って見せる少女の縄目の痕が、どうにも痛々しく見えて仕方がなかった。
……そう言えば、急に居なくなって…風早は、心配しているだろうか…?
耶雲も…岩長姫も……
――否、もしかしたら、自分が居なくなったとしても、何も問題はないのかも知れない…。
岩長姫の言う通り、何の役に立たない…するべき事も見出せない様な自分は、何の価値すら、ない。
彼らにとって単なる厄介者でしかない自分が、誰かに心配して貰えているのではないかと考える事すら、
大それた事なのだろう。
そう…そんな自分の事などどうだって良い。
大切なのは、少女の方だ。
少女には帰るべき場所も、その身を案じ、待っている人も必ず居る。
だとすれば、その人達の元へ無事に帰してあげなくてはならない。
少女には、その権利があるのだから――
思考を切り替える。
どうにかして此処から出る方法はないかと、この小屋の唯一の出入り口である扉を調べてみるものの、
外側から錠が掛っていてどうにも開く気配はしなかった。
さてどうするべきかと考えあぐねていると、ついと袖口を引かれる。
「何か…風が入って来てる様な気が…」
「…風?」
少女の言に不思議に思いつつ空気の流れを読む。
確かに、微かではあるが、密閉されている筈のこの空間に何処からか風が入って来ている様で…。
その証拠に、入口とは反対側に積まれていた藁の穂が僅かに揺れていて…。
それを見て何かに気付くと、はその藁の束を可能な限り退け、そして。
案の定――小屋が老朽化している為だろうか?…壁の下の方の木材が腐り落ちて、ほかりと穴が開いていた。
小さな穴だが、それでも子ども一人分、這いずって出るには難しくない位の大きさで。
二人は顔を見合わせると、互いに心得たとばかりに頷き合った。
そうして、出た先に広がっていたのは、すっかり更けてしまった夜闇に包まれた木々…。
やはりと言うか、小屋の中でも異様な静けさに思った通り、何処かの森の中に居る様だ。
そうは言っても、あの男達の行動や自らの時間感覚を信じるならば、下町からそれ程遠く離れているとは
思えない。
この森を抜けてしまえば、直ぐにも町の灯りが見えて来る…地理的にもそんな場所に位置するのではないかと思う。
兎に角、先ずは何とかこの森を抜けなくてはと木々の間へと足を踏み入れた…と、同時。
がたがたと小屋の扉を乱暴に開く音と、そして…
「おいっ!ガキ共が居ねぇっ!!」
「何だとっ!?」
背後から響いた叫び声を皮切りに、は咄嗟に少女の手を掴むと脇目も振らずにその場から駆け出していた。
草木を掻き分け、木立の間を縫い、どの位の間走り続けたのか…。
否、実際にはそんなに長い時間ではないのかも知れない。
だが今、追って来ているだろう男達に見つかってしまえば二度目はない事位、容易に想像が出来た。
しかし――次の瞬間、それは起こる。
「きゃっ…」
「っ、危な――」
少女が木の根に足を取られ、底の見えない闇に大きくその身体が傾ぐ。
繋いでいた手を離していれば、自分だけでも助かっただろう。
しかし、はそれをしなかった。
逆にその手を強く引き寄せ、踏み止まろうとする。
だが、それが叶わないと知ると少女の身体を抱き込み、落下の衝撃に耐える為に奥歯をぐっと噛み締めた。
*
「…ん?今何か物音がした様な…?」
「ええっ?俺は何も聞こえなかったぜ?…それより、見つからねぇなぁ、あのガキ共…」
「…ここまで探しても居ねぇって事は、完全に逃げられたって事か…ああくそっ!折角の金蔓がよぉ!!」
「全くだ、ツいてねぇ…。それよりもそろそろ戻ろうぜ。この森、夜になると狼が出るって話だからな…襲われたら
堪ったもんじゃねぇぞ」
「それもそうだな…」
…男達が去った後、そこから少し離れた崖下で、倒れたままだったは詰めていた息を吐き出した。
崖、とは言ってもそんな急でもない物だったが、決して緩やかでもなかった為、転がり落ちた時様々な所を強く
打ったのか、鈍い痛みを訴えて来る。
幸いにも骨が折れている箇所はないみたいだが、額か頭を切ったらしく、つっと一筋赤が顔を伝った。
「………ご、めん…なさい…」
「っ…大丈夫か!?」
腕の中で微かに身動ぎした少女に声を掛ける。
この状態で見える範囲では大きな傷はない様だが、そこまで高くはないとは言え崖から転げ落ちたのだ…。
その心身的な打撃は如何ばかりか――
「わ、たし…足手、まとい…で…」
「そんな事…」
「…わた、しを…置いて……に…げ、て……」
「おいっ…!!」
言うなり、すうっと力が抜けるのに慌てるが、気を失っただけの様で呼吸があるのにほっとする。
無意識に何とか立ち上がろうと力を入れるが、痛みと脱力感にどうにも上手く行かず、苛立ちを抑えるが為か
自然と嘆息が零れた。
…気絶してしまうのも、思えば仕方がないと言えなくもない。
この少女は、とても優しくて真っ直ぐで…人の痛みが分かる、人を思いやれる子なのだと、そう思う。
少なくともこの短い間で、自分にはそう感じられた。
穏やかに、普通に暮らしていればこんな目に合う事など、人生において一度あるかないかの割合でしかない
だろう。
それを強いる、世の中の不条理さに腹が立つ。
そして―――
何よりもこの状況でままならない身体が、自分には何も出来ないのだと突き付けられている様で…。
その上、先程男達が話していた複数の気配が感じられて、思わず自嘲の笑みが浮かんだ。
『 あなたって、強いのね 』
…そうじゃ、ない。
そんなんじゃない。
『…自分が何を成すべきなのか…そんな事、自分で考えな』
…成すべき事なんて、答えなど、全く分からない。
唯、それでも気付いた事がある。
自分は、弱いのだと…。
弱くて、何も出来ない…現に、目の前のこの少女を助ける事すら出来ない、全くの―――無力なのだ、と。
だから、力が欲しいと、そう思った。
自分が持ち得るだけで良い…
せめて、目の前に伸ばされた手を繋いだままで居れるだけの強さが欲しい、と…。
少しずつ近付いて来る獣の息使いを感じながら、それでも庇う様に少女の身体を抱く手に力を込めて、
は生まれて初めて…そう、願った。
2010/02/02.