白と紅とそして、黒…それが始まりだった














  ひらひらと、自分の上に雪が舞い落ちる。

  音もなく唯、深々と、まるでこの世界を全て白く塗り潰すかの様に。

  雪は無情でも慈愛でもなく、倒れている自分の身体にも又容赦なく降り積もるのだ。

  冷たくないと言えば嘘になる…いや、正しくは最早冷たささえも既に己の身が感じ
  なくなっているのだろう。



  何故、一人果てなどないかの様な、こんな雪原で倒れているのか…。


  答えは、考えるまでもなく単純且つ明快だった。





  …逃げたのだ、自分は。





  自分を捨てた…この世界の全てから―――

















序章 其の一 白き雪、紅き華、そして始まりは黒きキオク
   
















  物心付いた時には、もう既に母と二人だった。




  粗末な物だったが、着る物もあった。
  食べる物もあった。
  雨露を凌ぎ、眠る事も出来る家もあった。


  だが、それだけだった。

  


  父親は、姿形も声も知らない。
  やんごとなき身分の人で、この国の王族の端に名を連ねる人だと今よりも幼い頃に
  母から聞いた覚えがある。

  母は、この国の境にある貧村の出だった。
  身分も位もない単なる農民の出で、何時も貧しかった。
  田畑を耕すだけでは食べて行けず、十を過ぎた頃から自らの身を売ってまで生活していた。

  そんな時に父が視察で国境のこの村に訪れたらしい。
  その時に村人総出で歓迎の宴を催す為にその手伝いに借り出された母を、父が見初めたそうだ。

  『これで貧しさから抜け出せる』、と母はそう思ったらしい。

  自分を身篭り、気持ちは更に強くなり、その願いは現実となる筈だった。



  ――生まれて来た子が、“女”でなかったのであれば。



  丁度父には妻君が居られたが、まだ跡継ぎとなる子が居なかった。
  だから母は考えたのだろう。
  自らが男の子を生めば、その子は父の第一子と言う事で跡継ぎとしての権利を得る事が出来る。
  そしてその生母としての自分は豊かな生活を約束された立場に肖れる、と。

  しかし、生まれて来たのは男児ではなく、“私”と言う女児。

  母の思惑は大きく外れてしまったのだ。





  父にとって身分の低い母との関係は、余程厄介な事柄だった。
  それも生まれたのは男ではなく女…。
  とは言え、確かに母との間に生まれたのは自らの子供故、なかった事にも出来ず父は辺境にある
  又別の村にある一角に小さな棲家を与え、そして母と子が生きて行ける金銭を定期的に送ると言う
  形を取った。
 
  生きて行けるとは言え、母にとってはとんだ計算違いのそれははした金に過ぎず、金銭は届くと同時に
  すぐ様母の手から飛んで行った。
  
  やがて憂さを晴らすかの様に母は酒に溺れ、再び身を売る生活へと入り込んで行った。
  日に日に家へと帰るのが二日三日と間が長くなり、殆ど家に居る事の方が珍しくなった頃…父から
  送られていた金銭も次第にその額を減らして行き、やがて何も送られて来なくなった。





  幸い、その頃には私も物心が付き、今自分が置かれている状況を理解した。


  “ああ…自分は、生まれてはいけない子だったのだ”、と。


  父にとっても、母にとっても、自分は取るに足らない存在に過ぎないのだ、と…。



  だが、皮肉にも今まだ自分は生きていて、こうして存在している。

  ならば自分は、自分の為に生きようと、そう思った。












  村人からは半ば腫物にでも触るかの様な扱いで、自分から常に距離を取っている様だった。
  その上、ちらちらと自分の方を身ながらこそこそと村人同士話し、自分と目でも合おうものなら気まずそうに
  視線を外してそそくさと去って行く。

  それも、全ては自分の出自のせいだと言う事は、説明されるまでもなく明らかだったけれど。

  村人達の視線など、別にどうって事はなかった。
  どう謗られようと詰られようとも気にも留めようとも思わなかった。
  何を言われても、同じ村に唯住んでいるだけであって、所詮は他人事なのだから。
  村人達にとっても、自分自身にとっても…。





  渋る店主に無理を通して、店の裏での雑用の仕事を貰った。
  花街界隈に軒を連ねる店だったけれど、実の所は自分などと関わり合いになどなりたくなかっただろう。
  自分と関わり、誰も厄介事を抱え込みたくないのが本音の所で。
  それなのに自分を雇ってくれたのは、店の体裁を保つ為と、ほんの少し…“子ども”である自分に同情を
  抱いたから――ただ、それだけの話だ。

  年齢から考えても、流石に表の仕事に就かせる訳には当然行かず。
  だからとて実際与えられた仕事は、雑用と言っても殆ど扱いは下働き達よりも更に下の様な内容の
  物だった。
  朝早くから夜が更けるまで店の掃除から始まり、薪割りの様な力仕事まで――とは言っても、子どもの
  自分でも出来得る限りのものではあるが――毎日ふらふらになるまで働き、だが与えられる対価は
  ほんの微々たるものだった。

  それでも、何もないよりは余程マシだ。

  多少なりとも銭がある時には市場で食べ物を手に入れる事が出来たが、それでも少ない給金で買える
  ものなど限られている。
  そんな時には空腹を抑える為に、店の裏に回り、残飯を漁る時もあった。
  人目には付かない様に用心するものの、時折、店の大人に見つかって追い払われる事も、近所の子どもに
  見られ奇異なものの様な目で見られ、石を投げられる格好の餌食にされる時もあった。
  それを止める者は誰も居らず、偶然通りすがった村の大人はまるで何も見ていなかったかの様に通り過ぎ
  て行く。
  相手が一人であれば何とかなったのかも知れないが、大概がこう言う場合数人連れ立って来るのが通常
  で、奥歯を噛み締めて唯ぐっと耐えるしかなかった。
  抵抗してしまえば、かえってその相手の行動を増長させかねない。
  だから、少しだけ我慢すれば良いのだ。
  そうして居れば何れ飽きて、興味を失った様に何処かへ行ってしまい、その行為も終わる。
  それによって多少怪我をする事もあったが、そんなもの、飢餓の苦しみからすれば大したものでもない。



  生きて行く事に対しての痛みに比べれば…何て事もない事なのだから。












  だが、自分にとって運命とでも言えるその日は否応なしに訪れる。












  ――そんな生活を始めて、二、三年経った…ある冬の日。



  その年の冬、過去例年にない程の寒波が村を襲った。
  比較的山岳地帯に近かった為、当然の如く雪で村はあっと言う間に閉ざされてしまった。
  それも悪い事と言うのは重なるとはよくしたもので。
  夏――、村は現状とは真逆に雨が全く降らず早い内から酷い干ばつに日照りが続き、一年…この村
  全体がこの冬を乗り切れる程の実りを得る事は叶わなかったのだ。
  結果として、村は貧困と飢餓…そして厳しい寒さに苦しめられる事となる。



  …そうした状況下に陥ると、人と言うものは己の苦しさの原因となる“何か”を求める様になるのはある意味
  性とでも言うべきか。




  何故、自分達が今こうして貧困に喘がなければならないのか?



  ――それは天候が悪いせいで作物が育たなかったから



  では、どうして作物が育たなくなる程、天候がこうも悪い?

  毎日を汗水垂らして働いて、ただただ平穏に暮すのを旨として来た自分達の、何が悪かったのか?




  ―― それは、神が怒っておられるから だ  




  …と、言い出したのは誰だったのか…。


  いや、今ではもう、言い出した者が誰であろうとなかろうと、この時点では既にどうでも良かったのだ。
  唯、自分達の苦しさの言い訳の理由に出て来たのが一番尤もらしい、“神”と言う存在であった事。

  

  ならば…何故、神は怒っておられるのか?



  ―― 何か、神が怒る悪いものがあるからだ



  悪いものとは何か…?

  自分達ではない。自分達は毎日ただ一生懸命暮していただけの筈だ。

  ならば悪いもの、とは…?
  


  悪いもの…悪い者…神がお怒りになる、悪い存在…居てはいけない人間が、この村に居る…


  この村に存在してはいけない者が居るから、神はお怒りになっているのだ。



  その者が居るから、自分達は苦しい生活をしなければならないのだ。
  神のお怒りを鎮める為にも、その者は居てはいけない…生きていてはいけないのだ。
  いや、いっその事、その者の命を差し出せば、必ずや神の怒りはすぐにでも治まるに違いない。
  そうすれば自分達の暮らしは安泰となる…この村の住人全ての為に、その命を生贄として
  神に捧げるのだ…そうすれば、この天候も村も何時もの平穏を取り戻すに違いない。


  村の為に命を捧げるのだから、それも名誉ある大事な務め…素晴らしい事ではないか。



  結論が出れば、村人達の行動は早かった。
  自分達の考えは正しい…間違ってなどいる筈はない…。
  そう盲目的に一つの答えに執着した彼らは、その答えを真とする為に村を助けるだろう神に捧げる
  生贄となる存在を村中から探し当てた。


  その存在は、唯一人…

  この国の根幹を為す王族の血を引きながら、王族ではない者。

  自分自身の意思など関係なく、事実は皮肉にも自らの内に流れる血が証明していた。



  明け方近く、まだ雪が降り続く中を村人数人の手に寄って未だ眠りの半端に居た自分は否応もなしに
  外へと引きずり出された。
  何が何だか分からない自分を村の広場にもなっている様な所まで引き摺って行きながら、村人達は
  口々に自分に対しての呪詛の如き言葉を投げつけてきた。


  「お前の様な居てはいけない者を生かしていたからこう言う事になったのだ!!」

  「原因であるお前の命さえ捧げれば全ては丸く収まるのだ!」

  「これで龍神様のお怒りも鎮まるに違いない!!」


  広場の所まで来ると身体を地面に叩きつけられ、数人に押さえつけられたまま着物の首元を背中から
  剥がれ、痩せた右肩が露になる。


  「そらっ、龍神様への供物の印だ!!」

  
  「 ―――っ、ぁ、 あ゛ ――――っっっ!!!!」


  其処に強く押し付けられたモノに激痛が身体全体を走り、声にならない叫びが喉を突く。



  人の肌の、焼ける臭いがした。












  「ほら、とっとと歩け!」


  覚束無い足取りでその場に倒れ込んだのを、まるで罪人扱いで自らの手首を縛る縄の端を引っ張り上げる
  事で無理矢理立たされる。
  着ていた襤褸衣は真っ白な着物に着替えさせられ、それは見るからに死に装束と言っても過言ではなかっ
  ただろう。
  よろよろとふら付きながら松明を掲げた数人の男達に囲まれ、歩く。
  少し焦点の合わないままの視線を左右に投げれば、引き摺られて行く自分を他の村人達も見ていた。
  そしてその人々の影に、自分のよく知る人物の姿も見つけてしまった。

  …いっその事、見つけなければ良かったのかも知れない。

  その瞳に映っていたのは、他の村人達と全く同じ…異端を見る色と、そして――紛れもない、嫌悪。

  自分の視線が向けられている事に気付くと、慌ててそれは直ぐに逸らされ、何も見ていないとでも言うかの
  様に顔を背け、逃げる様に自分に背を向けその場を離れて行った。






  (ああ…何だか吐き気がする。)



  父は、名も知らない、存在を知らない、ずっと初めから…自分には、居ない。



  (…右肩が…酷く、…熱くて、痛い…)



  母は、…自分の存在すらを捨て去った。



  (息が、…苦しい…目の前が…ぼやける…)



  父も母も、自分には居ないに等しい。
  自分は、父にも母にも、必要とされなかった存在だ。
  それでも…それでも、馬鹿みたいに必死になって、這いずってでも独りで暮して来たのは……



  ――― 死にたくなかった… 唯、生きていたかったから



  それを、今度は村人達までもが自分の命を奪おうとすると言うのか?
  “村の為”等と自分達に都合の良い理由ばかりを掲げて、自分の命を奪うその行為にさも正当性が
  あると言わんばかりに…。


  …ふざけるな、と思った。
 

  勝手に生み出しておいて、なかった事にでもしようとしている父も母も。
  今まで散々自分の存在を無視しながら、尤もらしい大義名分を片手に、まるで自分達の考えが間違ってい
  るとは盲目的までに決して思わない浅はかさで、生贄と言う単語を隠れ蓑にして今、自分を殺そうとしている
  村人達でさえも。


  自分の命を奪う権利なんて、ない。
  この村の為に、死ぬ理由など…何処にある?


  誰が許さなくても、認めなくとも構わなかった。

  何であろうと、自分は今、生きて、此処に居る――


  だから…



  (…殺されて――たまるものかっ!!)



  同時、すぐ傍を歩く男に力の限り肩からぶつかると思い切りその腕に噛み付いた。


  「うわっ!!?痛っ…何するんだこの餓鬼っ!!」

  「おい!餓鬼が逃げたぞ!!捕まえろっ!!」


  後ろから聞こえて来る怒声など知った事じゃなかった。
  彼等の手が離れた瞬間を見て、兎に角必死になってその場から走り出した。

















  …その後の事は、よく覚えていない。


  唯、必死だった。


  我武者羅に走って走って、只管に走り続けた。
  そうして心臓が逆に破れそうになるまで走って、足元を取られ倒れ込む事で漸く止まった。
  何時の間にか、後ろから追って来る怒声も聞こえなくなっていた。

  其処が何処なのかすら分からなかった。
  うつ伏せで倒れ、荒い息のまま周囲を見渡せば、一面の白…。
  何処かの雪原の様だと言う事だけ分かった。


  降っていた雪は更にその量を増し、倒れた自分の身体の上に容赦なく降り積もっていく。
  落ち着いて来た呼吸に、だが、不思議と寒さや冷たさを感じなかった。
  このまま倒れていたら、今度は雪に生き埋めになってしまうだろう。
  そう思うのだけれど、身体は指先すらもうぴくりとも動かなかった。

  少しずつ視界が霞んで行く。
  その中で、自分が流した血が白い雪の中でやけに鮮やかで。
  紅い華の様だなんて全く関係のない事が頭を過る。


  …このまま、死ぬんだろうか?


  ぼんやりと浮かんだそんな考えに、思わず愕然とする。
  死にたくないから、逃げたと言うのに…今此処に来てそんな考えが浮かぶなんて…本当に
  自嘲するしかない。


  違う。


  確かに自分は、生きていたかった。
  殺されたくない、自分の命を奪われたくなんてない、死にたくなんてなかった。
  だから、逃げ出したのだ…生きる為に――

  もう一度そう思って、何とか立ち上がろうとするが身体に力は入らなかった。
  先程までよりも身体が重い様な気がする。
  それに…酷く、眠い…。

  降りてくる瞼を何とか止め様とするものの、強い眠気に抗う事も出来ず。
  ゆっくりと意識もぼやけて来る。



  唯、此処に来ても思うのは…



  (死にたくなんか…ない。――生きていたい)



  それだけ、だ。






  完全に瞼が落ちる瞬間、霞んだ視界の中に一つ…黒い人影の様なモノを見た。

  それが人なのか、誰なのか…それとも死せる禍つ神とかだろうか…?


  何であろうと、構わなかった。
  どんな形であっても…構わない。
  



  それでも、自分は――










   生きたい










  そう強く思うのを最後に、自分の意識は完全に闇に沈んだ。
















  ***  
  

  
  


   






  


  夜半に掛けて強くなった雪は、その雪原を真白に染め上げる。
  それは、雪原に一人…意識を失くし、倒れた少女にも同様に。

  何時の間に現れたのだろうか。
  ゆっくりと雪の上を軽く踏む音と共に、“彼”は倒れた少女へと近付く。
  直ぐ傍まで来て、少女の頬へ降った雪をそっと払いながら小さく口を開いた。



  「――… 見つけた…私の姫神子 ――」



  そう呟くと同時、彼は雪や出血によって冷たくなって行く少女の身体の下へと両手を差し込むと
  まるで自身の体温で温めるかの様にしっかりとその華奢な身体を腕の中に抱き込んだ。 



  自分の名を、強く呼ぶ声がした。
  
  そして、それが出来るのはこの世界で唯一人だけだ。



  その声を、その存在を…一体どれだけの年月、待ち続けただろうか?



  それ程までに待ち侘びた存在が、今この腕の中に居る…。
  自分の抱える闇とよく似た絶望を抱きながら、だが、それでもその奥に真実決して揺るがぬ魂を持った
  存在。
  そしてずっと焦がれ続けたその少女が強く、強く願った事――生きたい、と言う意思。


  漸く会えた、自分にとって唯一の存在の願いを、誰が見過ごす事が出来ようか?
  否…おそらく、此処で少女が真逆の事を願ったとしても、彼はそれを捻じ曲げたかも知れない。


  自分の声を聞き、自分と同じ絶望を分かち合える存在であるが故に――

  そうでなくても…今までもこれからも、何よりも愛しき存在に違いないのだから。



  「…大丈夫だ」



  壊れ物でも扱うかの様に少女を抱き上げ立ち上がると、彼は静かに呟く。



  「貴女は生きる…貴女が望む限り――」





  貴女の願いは、私の願いなのだから。





  ぐっと少女を抱く腕に力を込めるとゆっくりと歩き出す。

  やがて、少女を抱く彼の姿は幻でもあったかの様に雪の降り続く中、一瞬にして掻き消えた。 
















                                                       2009/04/24. 
 
  

  
  
 

【あとがき】 遂に始めました遥か4夢!記念すべき第一話にして名前変換なしってどう言う事だろう…。
どうぞこれから宜しくお願いします!