多くの松明が夜の森を照らし出す。
―――その日は珍しく雪が降っていた。
普段中央に居る事が多く、それでは戦時のあらゆる事象に対応出来ないとの、突然の自分達の師君の言に
従い急な軍事鍛錬と警護を兼ねて、北方の国境へと数日前から行軍して来ていたのだが。
この季節と、更に北方と言う方角を考えてみても、逆に珍しい事ではないかも知れない。
中央は比較的過ごしやすい温暖な気候なだけに、それに慣れてしまっていると言う事と、この国の領土は
四方、八方へと拡がり、それこそ北の端から南の端まで広大な領域を誇る故、場所によってはその気候を
あらゆる姿へと変化させる。
今の季節は、冬…そして、今現在居る場は国の北方。
雪が降るのも珍しくはあるまい。
唯、中央の気候に慣れた者にとっては滅多にない事であるだけに、それはかなり印象的だった様にも思える。
とは言え、本格的に降り出したらしいそれに夜も更けたのも相俟って、森の中、ある程度開けた場所で野営を 張る事となった。
陣内の兵達の様子を確認がてら見回っていた時、ふと何かの気配を感じて振り返る。
眼前に広がるのは、鬱蒼と生い茂る木立……その奥にある大樹の根元に、何か黒い影が奔る。
だがそれも一瞬の事で、黒い影が嘘の様に消えた後、そこに誰か人が倒れているのが見えた。
思わず、大樹の方へと駆け寄る。
それはもう、殆ど自動的な行動だった。
「…っ、おいっ!!大丈夫かっ!?」
降頻る雪の中、大樹に身を任せる様に横たわっていたのは、まだ年端も行かない…全身傷だらけの少女、
だった。
序章 其ノ二 目覚めと、再生と
ふっと、微かに瞼が震えたかと思うと、ゆっくりと目を開ける。
深い深い…だが、何もない無の世界から意識が急速に浮上するのが分かった。
未だぼやける視界で、唯、何も考えずに開いていた目に最初に映ったのは、自分の知らない布張りの天井。
(…ここは……?)
無意識に起き上がろうとして、全身を痛みが走る。
ぐっと小さく呻くと、再び誂えられたらしい寝台に倒れ込む様に横たわる。
この状況は、一体どうなったと言うんだろうか?
確か……自分は、雪原で力尽きて…倒れて…それから?
何とか必死に思い出そうとするものの、それ以上の事はまるで何かに塗り潰されたかの様に真っ黒で
断片程も浮かんで来ない。
仕方なく何とはなしに、横たわった状態のまま可能な範囲で辺りを見渡す。
布張りで簡易的に作られた幕屋の様な…戦の時等に使われる陣屋の中の様で。
未だ小さく鈍痛を訴える身体の節々に――特に右肩辺りの痛みは気が付くと同時に更にそれが増したかとも 思える――視線を落とせば、其処此処に白い布地が丁寧に巻かれ、手当てが施されていた。
そして剥き出しの地の上に麻布が敷かれ、その中央に自分は寝かされているらしい。
それ以上の情報は自分から見える範囲では得られなかった。
唯言えるのは、自分は死なずに済んだと言う事は確かな様だった。
しかし…とは言え、此処は一体何処なのだろうと、結局又初めの疑問に立ち返るのだが、その時不意に 幕屋の一角――入口なのだろう――の布が割られた。
「…ん?ああ…目が覚めた様だな」
言いながら入って来たのは、長い黒髪を腰位までに伸ばした青年で。
背は高く、黒系色の衣服を纏い、革製の軽鎧を身に付けている。
…助けてくれた人だろうか…?
ぼんやりとそう思い身を半ばまで起こし掛けて、だが、青年の腰に差してあるそれらに気付くと目を見開いて
思わず固まった。
「しかし、目覚めて良かった。お前はここ二、三日眠り続けていたんだ」
近付いて来る青年にビクリと大きく身体を震わすと、座ったまま後ずさる。
「……や…」
「どうした…?大丈夫か?」
その瞳に映る明らかな恐怖と、身体を小さく震わせる少女の急な変化に首を傾げつつ、傍に寄りそっと手を
伸ばそうとして。
しかしその手は逆に、触れる前に振り払われた。
「なっ…!?」
「ぃ…やだっ!いやだっ!!死にたくないっ!!近寄らないでっ!!」
行き成りそう叫ぶと、痛む身体も無視して必死に藻掻き何とかその場から、青年から逃れようとする。
「お、おいっ!!」
「いやだ!来るなっ…死にたくないっ!!殺さないでっ!!!」
まるで見えない衝動に突き動かされる様だった。
何かに…脅えている。
自らが死ぬ事に―――殺される事に。
酷く恐れを抱いているのは少女の絶叫が示す通りなのだが、一体何がこの恐慌状態の引き金を
引いたのか…。
青年ははっとして己の腰を見る。
若しや、と思い自らの腰に差されたその柄へと手を伸ばした。
「っあ……――――――――っっ 」
少女の目が有らん限りに見開かれ、喉の奥から引き攣れ、声にならない叫びが上がる。
「ちっ…」
小さく舌打ちした。
原因は分かった。
だがそれが余計に恐れを増長させてしまったのか、瞳の焦点が合わないまま両手で側頭部を押さえ頭を
振り乱す。
「ひっ…あ、いや…いやだっ…死にたくないっっ!!」
変わらず叫び続けるものの、呼吸が浅い為か先程よりもか細く、合間に雑音が混じる。
何にしてもこの状態のまま放っておく訳には行かない。
青年は迷う事なく、素早く二振りの柄に手を掛ける。
それを目の当たりにした少女の絶叫と、重い金属質の物が派手にぶつかり合う音が幕内に響き渡った。
***
「ゃ……いやだああああああああぁぁぁぁぁっっっーーーーーーー!!!!!」
目当ての陣屋の前まで来た途端、行き成り幕内から聞こえて来た叫び声と物音に驚き、慌てて入口の
布を割り、中へと入る。
「耶雲!!どうしましたっ!?」
しかし、その言に答える声はなく。
否、確かに自分と同門である長い黒髪の青年――耶雲は居たものの、場に流れる雰囲気にそのまま口を
閉ざした。
先程までとは打って変わって、幕内は一気に静寂に満たされる。
陣屋の端の方には耶雲の二振りの愛刀が無造作に投げ捨てられていた。
少女は、一体何が起こったのか…まるで分からなかった。
……怖かった。
唯、恐ろしかったのだ。
青年が持っていた刀に、自分の命が奪われる恐怖と…生贄にしようと、自分達だけの勝手な言い分だけで
自分を殺そうとした村人達と重なってしまった。
死にたくなんてない…生きていたいと、唯、それだけを思って。
怖くて恐くて、頭が真白になって…ふと気が付いた時には今のこの状態になっていた。
少女の身体は細く、小さく。
何時の間にか青年の腕の中にしっかりと抱き込まれていた。
「…大丈夫。大丈夫だ…」
低めの、静かな…しかし何処か優しさを感じる声が小さく、少女の耳朶を打つ。
そっと安心させるかの様に背中をぽんぽんと軽く叩きながら…まるで幼子をあやすかの様に。
繰り返されるその動作に、少女の心が自然と落ち着いて行く。
「此処に、お前を殺そうとする者は誰も居ない…誰も、お前の命を奪おうとする者は居ない」
青年がぽつり、ぽつりと続ける。
青年の言葉は神事の際に使われる祝詞の様で、自分でも不思議な程心に浸透して行く。
「だから――お前は死ななくても良いんだ。…生きていて、良いんだ」
その言に思わず顔を上げる。
青年の瞳は真っ直ぐに少女へと注がれており、それが嘘偽りなのではないのだと何よりも雄弁に語っていた。
…信じて、良いんだろうか…?
自分は、生きていて良いと。
殺される事もない…死ななくても良いのだ、と――
「………ほん、とう…に…?」
自分でも意識しない程に、出した声は微かに震えていた。
此処に来て、それでも未だ確かかどうかを問う自分に青年はゆっくりと、だが確りと頷いて見せた。
「ああ、本当だ。だから、もう…怯える必要はない」
その言葉は、少女の心を凪ぐには十分なもので。
先程まで感じていた怯えや恐怖が、拭われて行くのが自分でも分かった。
「……よかっ、た…」
生きていても許されるのだ、と…そう思うと同時、呟き、小さく微笑むとそのまま瞳を閉じる。
やがて静かな寝息が己の腕の中から聞こえて来ると、耶雲は一つ、やっと安堵の息を吐いた。
「…漸く、落ち着いたみたいですね」
「風早…来てたのか」
気付いていただろうに…否、それだけ必死だったと言う事だろう。
僅かに苦笑して、青い髪に金の瞳の青年――風早は投げ出された耶雲の二刀を拾い彼の方まで歩を進めると その傍らに片膝を着く。
耶雲の腕の中で眠る少女の眦には涙が薄らと浮かんでいた。
今にも零れそうなそれを親指でそっと拭いながら、風早は顔を曇らせる。
「…この子は…俺達が思う以上に辛い物を背負っているのかも知れませんね…」
「ああ…そうだな…」
それは、つい先までの少女の状態が全てを物語っていた。
普通の、同じ年頃の子どもと比べても明らかに痩せて、細い身体。
身体中に負っていた大小様々な傷。
手首に残る痛々しい縄目の痣の痕と、“死”に対する異様なまでの怯え方と言い…否、“自分の命を
奪われる事”への怖れ、だろうか。
それらが少女の今までの境遇を何よりも示している様で、耶雲はその寝顔を見詰めながら思わず苦しげに
眉を寄せた。
***
次に目が覚めたのは、それからほぼ半日後だった。
「おや?起こしてしまいましたね」
前に一度目覚めた時に入って来た黒髪の青年とは又違う。
傷の手当てに新しい布に取り替えてくれていたらしい青い髪の青年が、言いながら柔らかく微笑む。
「傷は見た目程酷くはないものが殆どなので…傷跡はほぼ、残らないと思いますよ」
穏やかなその声は、あの時の黒髪の青年とは又違った安心感を自分に与えてくれるみたいで。
それが不思議な感じを受けて無意識にじっと青年を見ると、青年はそれを別の意味に捉えたらしい。
「あ…そう言えばまだ名乗ってませんでしたね。俺の名前は風早と言います。それから、一度目を覚ました時に もう一人を覚えていますか?彼の名前は、耶雲と言います。…貴女の名前を、教えて貰っても良いですか?」
「…っ、あ、済みません!」
青年――風早の言葉に完全に意識が覚醒した少女は、慌てて身を起こす。
無理はしない様に、と言われ、確かに多少傷が痛んだがそれは無視した。
敷布の上にちゃんと正座し、改めて風早に向かい合ってから自分の名と、手当の御礼をしようと口を開こうと
して。
だが、次の瞬間に絶句する。
「…どうか、しましたか?」
まさかまだ傷が痛みますか?と気遣わしげに聞いてくる風早に小さく首を振って口元を押さえる。
「………………………分かり、ません…」
「え…?分からないって……それは―――」
「風早、入るぞ。師君をお連れしたんだが………どうした?」
幕屋の入口の布を割り、一歩足を踏み入れた黒髪の青年――風早の言によると、耶雲と言うらしい――は
何処か固まってしまった雰囲気の同門と少女の二人に怪訝な顔をした。
「名前が…分からない?」
半ば呆然とした様な耶雲の言に少女はおずおずと一つ頷く。
分からないとしか正直、言い様がないのだ。
耶雲が連れて来た老齢の女性――彼らの話を聞くと、此処は国直属の軍で、訓練も兼ねた警護で国境まで
行軍して来たらしい。
そしてこの女性は彼らの師であり、一軍を預かる国の四将軍の内の一人だと言う――岩長姫を交え、此処に
保護されるまでの経緯を淡々と、覚えている限りを求められるまま簡潔に掻い摘んで話した。
思い出す事で再び昨日の様に得も言われぬ恐怖で塗り潰されるかとも思ったが…特に、何も起こる事も
なかったのは幸いだった。
自分が覚えているのは雪原に倒れ込んだ所までで、その後耶雲の言う、森の中で木に寄り掛る様にして
倒れていたと言うのは全く身に覚えがない。
そして、自分の名前に関しては…確かに自らに母親から付けられた名前があったのだ。
その名を今よりもっと幼い頃から呼ばれていたのは分かる。
だが、当のその名前がどう言う物だったのか…普通であれば自然と出て来る筈のそれが、口から出て来ない。
何とか思い出そうとしても、考えれば考えるだけその部分だけが真白に塗り潰されたかの様に全く浮かんで
来ないのだ。
――まるで、あった筈のそれが、本当は最初からなかったのだと言うかの様に…。
何故か、と言われても逆に自分が問いたい。
名は、その存在そのものを現すものだと言う。
…ならば、その名が分からない今の自分は、一体何だと言うのだろう?
生きたいから逃げ出したと言うのに、真実死にたくなかった筈の自分自身の名を失うなんて…何と言う矛盾か、と。
本当に聞いて呆れるとはこの事だ。
内心思わずそう自嘲した。
「しかし…名は覚えていないとしても…その太刀はお前の物か?」
「は…?」
「ほら、枕元に置いてあるだろう?森で保護した時、すぐ傍らに落ちていたんだ。お前の物かと思って一緒に
持って来たんだが…」
違うのか?と続ける耶雲に対して咄嗟に言葉が出なかった。
赤い房飾りが付き、鞘に収まった黒い柄の一振りの太刀。
はっきり言って生まれてこの方身に覚えのない代物だ。
持ってみるとやはり重く、自分の手には到底余る。
改めてまじまじと見てみてもやはり今の今までこんな立派な太刀、見た事もましてや触れた事もない。
なのに、何処か昔からずっと傍にあった様な懐かしさと、柄を掴めば不思議な事に妙にしっくりと来る感じが
する。
―――何だ…?
とは言え、やはり見た事がないのは事実だったので、素直にそう言おうとした…その時。
「これは……“天羽々斬…”」
えっ?と思う暇もなく勝手に口が動いていた。
自分はこんな太刀など知っている訳でもないのに…
さも当然だと言うかの如く、又もや口が自然と言葉を紡ぐ。
「“…私の大切な…護り刀です”」
“アメノハバキリ”? この太刀の名前?
“護り刀”? 何が? この太刀が、…自分の?
自分では全く知らない筈なのに、心の奥底ではよく知っている筈だと叫ぶ自分も居て。
何が何なんだか、一体これはどう言う事なのか…内心、かなりの動揺が走った。
「…天羽々斬……」
「風早、何か知っているのか?」
ぽつり、と小さくその名を呟いたのを聞いた耶雲が聞き返すのに、風早は「俺も知りません」と苦笑と共に
返した。
と、不意に、くつくつと笑い声が響く。
「全く…大層な名前の護り刀じゃないかい、ええ?」
「師君…」
耶雲や風早よりも上座に座り、黙って事の成り行きを静観していた岩長姫が此処に来て唐突に口を開いた。
弟子達の視線ににやりと笑いながら胡坐を組み直すとそのまま続ける。
「まぁそれは置いておくとして…この子の処遇はどうしようってんだい?何か考えてんのかい?」
「…一応、橿原の都までは連れて行ってやろうとは考えてます」
「ふぅん?…それで?その後はどうしてやるって?一緒にその子が並に暮らせる様になるまで世話してやるって 言うのかい?」
「それは……」
思わず言い淀む耶雲に代わり、岩長姫に対し姿勢を正した風早が決然と言い返した。
「しかし、このまま放っておく事など出来ません」
「…一時の感情で動くのは止めておきな。私らは軍の人間であって慈善を奉仕する輩の集まりじゃないんだ。 大体、あんた達が最後まで面倒を見切れるとは到底思えないね」
ぴしゃりとそう返され、思わず口を噤む。
歯に衣着せぬ言い方ではあるが、岩長姫の言に偽りがないだけに二の句は告げなかった。
一時の感情と言う訳ではないが、ある種、雪の中に傷付き倒れていたと言うだけで感情が動かなかったかと
言われれば、一重にそれを否定出来ない所も痛い。
だが…だからと言ってこのままこの少女を追い出すと言う事に賛同出来ないと言うのも事実だ。
「ですが…」
「――大体私は『ガキ』は嫌いなんだ」
言い捨てると岩長姫はふと表情を真剣なそれへと変え、少女に視線を向ける。
「この御時世…確かに見かけ表側、平穏無事な民達の暮らしの裏側で逆に恵まれない生活を強いられている 連中も山程居るんだ。…誰も、知ろうとしないだけでね」
その言葉に少女は、はっと顔を上げた。
「中には親もなく、自分達の力で何とか生きている『子ども』等もたくさん居る。路上で生き倒れてる奴も、
生きる為に他人から盗んだり奪ったりする奴も、冬の寒さに身を凍えさせてる奴も…それこそ、私らが
知らないだけでね」
…その通りだ、と思う。
村に居た時、自分と同じ様な境遇な者は他にもたくさん居た。
唯、一般の民達が知ろうとはしないだけで…。
そして―――
「倒れていたからと言って、目の前の一人を助けた所で何の解決にもならない。それは単なる自己満足の
偽善でしかないんだよ。そして…自分がそんな境遇に生まれたからって自分一人が不幸だって思い込んでる
輩も、恵まれた暮らしをしていて、それを当然に与えられるもんだって甘受してる『ガキ』も…私は嫌いなんだよ」
そう…この世の中は、世界は、誰もが思う程決して甘くなんてない。
だからこそ自分は…物心着いたあの時から決めたのだ。
誰に甘えるでもなく、誰に頼るのでもなく…自分自身の力で生きて行こうと。
自分を卑下したり、誰も助けてくれないからとか、そんな理由からではなく――恐らく、幼いながらも己で考え 決めた…自分自身の中にある、生きる為の…たった一つ持ち得た矜持に誓って。
だから。
「っく……」
「まだ動かない方がっ――」
全身の痛みに顔を歪めながら無理にでも起き上がろうとすると、慌ててそんな自分を止めようとする風早の
手を振り払う。
唖然とする彼に「大丈夫です」とだけ短く伝え、少女は岩長姫の方に身体の向きを変えると居住いを整え、
正座し、膝前にきっちりと両手を置くとそのまま深く頭を垂れた。
「…助けて頂いて…有難う御座いました。この御恩は、決して忘れません。…もし、許されるならば…
今夜一晩だけ、屋根をお借りしても宜しいでしょうか?」
突然の少女の言葉に青年二人は思わず声を失う。
少女の言っている事は、つまり、明日には此処を出て行くと言う事だ。
「その傷ではまだ無理だ!せめてもう少し傷が癒えてからでも――」
「耶雲は黙ってな。………本気、かい?」
弟子の言を一言で遮り、岩長姫は少女に目を向ける。
両手は着いたまま、少女は顔を上げると真っ直ぐとその視線を見返した。
「命を…救って頂いた…それだけで十分です」
痛みを耐えながらも言って、微笑って見せた。
生きたいと願った。だから逃げ出した。
普通であれば死ぬ筈だった命を、救ってくれた。
倒れて、そのまま見なかったフリとて出来たのだ。
岩長姫の言う通りだ。
助けられたからと言って、都合良く面倒まで見て貰えるなど…
それは相手の好意があるからこそで、当然に与えられる物などではないのだ。
命は拾えた…後は自分自身の力のみで生きて行く。
明日をも知れぬ生かも知れないが、それが己で決めた、この世で生きる己の覚悟だ。
真っ直ぐと向かって来る眼に揺るぎはない。
外さぬ視線の、その漆黒の奥に宿るのは…
「ふぅん…良い面構えをするじゃあないか」
何よりも強い、決意と覚悟。
死ぬ事よりも生きる事の方が、実は遥かに難しい。
大の大人でもこんな顔をする奴は、少なくとも岩長姫の知る中では片手で数える程しか知らない。
それをこんな少女に示されるなど…。
思わず口元に笑みが浮かぶ。
「…成程、馬鹿弟子共が騒ぐ事だけはある」
同席している当の弟子二人が弾かれた様に此方を見るのが分かった。
何をしなくとも、自分は先ず人を見る目と言う物を鍛えさせる。
教えずとも自ら勝手に学び取らせる道を取らす。
それが、こんな所でも発揮されたと言う事らしい。
そして―――
「その命…こんな所で失うにはどうにも惜しいね…」
「それではっ!?」
自らの言葉が示す先を読んだのだろう…耶雲がそう声を上げ、風早も黙しつつもその表情に期待の色を
滲ませる。
少女の瞳が驚きに見開かれるのに、岩長姫は不敵に笑った。
この少女の生き様…一体どの様に進んで行くのか…。
「面白いね…気に入った。あんたの面倒、この岩長姫が引き受けようじゃないか」
「えっ…?」
「だとしたら…そうだねぇ。先ずは呼び名を決めないと」
名前がないって言うのもこれから面倒だ。
「えっ?はぁ??」
突然の事態に付いて来れてないらしく、目を白黒させる少女につと真剣な、しかし何処か温かみを宿した
視線を向けると口を開いた。
「―――“”…、あんたの名前は今から“”だ」
「………?」
「そうだ。…さて、話が纏まった所で今夜は宴だよ!馬鹿弟子共!私に“娘”が出来た祝いだ、盛大にやろう
じゃないか!!」
「はい、では直ぐに御用意しましょう」
「…全く、人が悪いですよ師君…」
嬉しそうに頷き、立つ風早と、ほっと安堵の息を吐く耶雲にほらとっとと動きな!と指示を出しながら。
その隣で未だ話に付いて来れてないらしい少女――の頭に岩長姫はぽんぽんと軽く手を乗せる。
「一人で生きる覚悟ってのはなかなか出来るもんじゃない。それはあんたの胸の奥に大事に仕舞っておきな。 …だが、あんたは今日から私の“娘”…“”になったんだ。名付け親とて親は親…“子”が“親”に甘える事は
悪い事じゃない…寧ろ当然の理ってもんさ」
だから、もう無理やら無駄な遠慮やらするもんじゃないよ。
そう告げると固まっていたの顔が徐々に解け、今にも泣き出しそうになりながら、それでも笑った。
「…あ、りがとう…ございます…“母上”…」
の口から出た単語に目を丸くするものの、更に笑みを深くすると岩長姫はその頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
こうして少女は、この日から“”となった。
全ての始まりがあるとするならば、おそらく、この日この瞬間なのかも知れない。
そして、『岩長姫に娘が出来た』と言う話は、二三日も経たずして橿原の都まで広まる事になる―――
***
「…ん?風早、どうした?」
「いえ…ちょっと酔い覚ましに…風に当たってきます」
師君に娘が出来た祝いの宴もそろそろ酣となった頃。
風早は酔い覚ましを理由に席を外すと幕屋の外へと出る。
…とは言え風早は酒には滅法弱く、嗜む言う程にも口にしては居ないのだがそれならば酒気にも弱いだろうと 思わせるには都合良く、抜け出す名目には丁度良い物だった。
季節と場所が相まって、夜風は存外の冷気を孕み、体温を奪う。
ふと夜空を見上げれば、今夜は月がない――朔の夜だった様だ。
幕屋から少し歩き、森との境目辺りに来てから足を止める。
深い森の中には星の輝きが届く事はなく、夜よりも暗い闇が蠢いている様にも見えた。
その闇が、風早が足を止めると同時、見計らったかの如く何かを形作る。
やがて生まれた気配に、風早は眼差しに険を込めた。
「……やはり、お前が関わっていたのか…一体何を企んでいる?」
「…企むだなんて人聞きの悪い…。人の良い顔をして、お前の方が余程我等より罪深かろうに」
そう言うと気配は一頻りくつくつと笑う。
更に視線を険しくする風早に、だが気配は動じる事もなく笑いを治めるとつと、真剣さを込めた。
「…これは我が主の願いだ。俺の独断ではない…それだけは言っておく」
「主、だと…?既にあらゆるものを見限っている上に、今度は一体何をしようと言うんだ?」
「おい…言葉には気を付けろよ。………見つけられたのさ…自らの声を聴き届ける“唯一”を――」
告げるなり、再び闇が蠢く。
「“唯一”って…まさか…がそうだと言うのか!?」
「――精々大事に扱え…その、を…な」
風早の問いには答えず、言うだけ言うと闇は形を崩し霧散する。
後にはただ、夜が齎す単なる闇だけが横たわっていた。
「…、が……?」
風早の小さな呟きは夜風に舞い散り、誰に聞かれる事なく夜に溶けた。
2010/01/08.
【あとがき】 漸くの更新、序章2話です。…前からかなり空いてしまって申し訳ないばかりです;;そして無駄に長い;;
ヒロインさんの原点のお話…色々とオリキャラとか出張ってます。近々設定をupするのでそちらで改めてご紹介致しますね!
では、ここまでお付き合い、有難うございますv