「―――国の官人が、聞いて呆れる」
高くもなく、低くもない…だが、凛とした声音だった。
肩口までの濃い藍の髪が風に微かに揺れる。
同色で纏められた着衣は決して華美ではないが、その質の良さは見る者が見ればある程度の地位を有する事を如実に語っている。
無駄のない所作や身のこなしからは、何かしらの武術を少しでも嗜んでいる事が窺えた。
背も、年の頃も…自らと同じ位だろうか?
だが、そんな外見的な事よりも惹き付けられたのは、その深い色の瞳の奥底に宿る何よりも強い意志の光で…。
それがの、初めて出会った時に抱いた、少年に対する第一印象だった―――
一章 其ノ一 邂逅<一>
ぱらぱらと竹簡を繰る音が響く。
「……こうした経緯を背景に当代女王との代替わりが為された、と言う訳です」
続いて説明されて行く内容を、紐で綴じた木簡へと一心不乱に筆で書き付けて行く。
既に同様にして、紐で綴じられ使い切られたそれは数冊に及び、利き手側の脇の方にうず高く積まれている
――とは言っても、今この時間だけで出来たのではなく、
ここ数日の時を要した物ではあるのだが。
聞いて、自らも読むだけでは頭に入らないと零した自分に、では何かに同時に追って書いてみるのは如何
でしょう?と提案してくれたのは柊で。
どうやらこの方法は、自分に余程合っていたらしい。
聞くだけでは曖昧だった部分がはっきりとし、細かい所まで分かる様になり、尚且つ後からでも見直す事が
出来る。
それからは勉学の時にはずっと、好んでこの方法を取っていた。
必死に書き取るの筆が止まる頃を見計らって、長めの青みがかった髪を耳の横で総角に結った青年
――大伴 道臣はぱたりと竹簡を閉じた。
元々、勉学の教え役には耶雲と柊の名が挙がっていたのだが、耶雲は羽張彦よりはマシとは言え教え方に少々難がある為に却下。
柊は教えるには適任かと思われたが、知識が著しく自分の興味に偏っていて。
それならばと全体的に満遍なく学んでおり、他の弟子にも教えている道臣にならば…と、彼に白羽の矢が立ったのだった。
実際に学んでみると、初めて触れる内容であっても一つ一つ丁寧に教えてくれて、かなり分かりやすかった。
耶雲や、同じ兄弟子だと言うのに名前すら挙がらなかった羽張彦に爪でも煎じて飲ませたい位だ。
…まあ、彼らには武術の面ではお世話になってはいるが。
竹簡を巻き、仕舞い始めるのを不思議そうに見上げると道臣は小さく笑んだ。
「今日はこの辺りで終わりにしましょう」
「え、でも…」
まだ決められた刻限までにはもう少し時間がある筈だ。
何故?と首を傾げれば、少々困った様な色が微笑に混じる。
「実は、先程までの所で国史は以上だったんですよ。次の分野に入るにも残った時間だけだと中途半端なので…」
それに色々と準備も要りますし、との言に、そうなのかと納得する。
しかし、そうだとしても…
「何か、案外早く終わった気がする…」
「そうですね…けれどその分、が頑張ったと言う事ですから」
ただ…理由はそれだけではないとは思ってはいるのだが。
「今日位、早目に終わっても罰は当たらないでしょう。それに…ご友人とお約束があったのではないですか?」
「うわっ…と、そうだった!…それじゃあ、お言葉に甘えて…行って来ますっ」
今日も有難う御座いました、道臣さん、と律儀に頭を下げて椅子から立ち上がり戸口へと向かう。
その後ろ姿を見送ってから目線を机の上に戻すと、道臣は思わず苦笑を浮かべた。
先の彼女の、早く終わったと言うのは決して気のせいなどではない。
の履修速度は明らかに通常のそれよりも速くなって来ている。
勉学を始めた頃には、流石にそうではなかったのだが、一度興味を持つと……速い。
元々知的好奇心も高かったのだろう…入り込むとまるで己の血肉とするかの様に貪欲に、深くまで識ろうとする。
その時の集中力など、道臣から見ても驚異的な物だった。
そう言う所は傾向として、柊に似ているのかも知れない…。
そんな事を考えつつ、机の上に高く積まれた木簡の束の一つを手にしながら道臣は一人、相好を崩す。
聞けば、武術の方でも筋が良く、確実に腕を上げているそうだ。
今の時点でこうならば、将来…彼女は一体どんな人間になるのだろうか…?
四道将軍たる岩長姫の義娘であり、その弟子となればそれだけである程度の位を有する事は可能だ。
師君の様に女人の身でありながらも、世に名を馳せる武将となるか。
はたまた、その才を持ってして国の中枢を支える文官となるか…。
どちらも険しい道ではあるが、であれば成し遂げられるのでは、と考えてしまう。
だとしても、選ぶのは彼女自身の意志でなければ何の意味もないのだが――
「全く…末恐ろしい子、ですね」
師君、貴女の義娘君は…。
勿論良い意味でそう呟くと、道臣は教え子の成長を思い、柔らかく目を細めた。
*
幾つかの角を曲がり回廊を通り抜けた先にある小さなその室は、邸の外れの方に位置していた。
換気の為にか、戸も窓も開け放たれており、そこからひょいと中を覗き込めば目立ての人物は既にそこに
居た。
「…壱予!」
「あら、…早かったわね。勉学の方はもう良かったの?」
「うん。今日やった所で国史が終わって、きりが良いからって道臣さんがね…。壱予の方こそ早くない?仕事は大丈夫?」
「午前中の物はもう済ませたの。そうしたら先輩が先に休憩に入って良いって言われたから…」
でもつい先刻来た所よ?と壱予が付け加えるのに笑う。
「なら今日は案外ゆっくり出来るかもね」
「そうね。もう少ししたらお茶が入るから…それまで待ってくれる?」
「当然っ!」
言って、備え付けの椅子にすとんと腰を下ろした。
…壱予の淹れるお茶は本当に美味しい。
自分も以前やり方を教わって、折を見ては練習をしていたりするのだが、それでも壱予の分には及ばない。
コツがあるのだと言っていたが、どうにも思う様には行かなかった。
味も香りも申し分なく、それ以上に淹れる時の手の動きや姿勢すら、自分から見てもとても綺麗で。
女官の仕事の一つとして覚えただけだとしても、これはもう立派な彼女の特技の一つなのだと思える。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
淹れてくれた茶を一口流し込んでほっと息を吐いていると、壱予がクスリと微笑んだ。
「壱予…どうかした?」
「ううん…何だか…こうしているのが不思議な感じがして…」
何が言いたいのか、今一つ掴めずに首を傾げるものの、次の壱予の言によって図らずとも理解した。
「思えば、あれからもう二年も経ったんだなって…」
あれから――あの事件から、言われてみれば二年の年月が流れていた。
巻き込まれた壱予にとっては、思い出すだに恐怖でしかなかっただろうに、それでも自分にとっては大きな転機だった。
あの事件があったからこそ、今の自分が此処に在るのだと言える。
逆を言えば、あの事件がなかったならば…自分も又此処には居なかったかも知れない。
恐らくは岩長姫の答えを出せぬまま、自ら邸を出る道を選んでいただろう。
けれど…そうはならなかった。
この二年の歳月で、壱予は見習いから正式な女官となり、自分は義娘となり、弟子となってから岩長姫の元で多くの事を学んで来た。
そして…こうして共に笑い、語り合える親友を得る事が出来た。
もう二年なのか、まだ二年なのか…。
どちらであったとしても、嘗ての自分であれば決して手にする事も叶わない…掛け替えのない日々だった。
故に、今となっては失う事など出来る筈もなく、もし仮にあの時に戻ったとして再び選択を突き付けられたとしても…何度でも同じ答えを選ぶだろう。
例えどんな結果が待っていようと、己自身が後悔をしない為に―――
だがそれでも、大切な友人である彼女を巻き込んでしまった負い目は、消えない。
すると、自分が考えている事を察したのか、その綺麗な眉を僅かに顰めるとおでこをぺちりと叩かれた。
「あ痛っ…」
「また自分のせいだって考えてるんでしょう?……あれはのせいなんかじゃないわ」
しっかりしていなかった私が悪いのよ、と続く言葉に緩く頭を振る。
「でも…まだ他に方法があったんじゃないかって…何時も、思うんだ…」
何か別の…壱予が傷付かなくても済む方法が…。
「…」
分かっている。
今更考えた所で詮無い事だと言う事位。
どちらが悪いか、悪くないかなど、何度繰り返しても、結局は答えすら出ない堂々巡りでしかない事を。
しかしそれでも、ふとした時に思い返しては考えずにはいられなかった。
「…私もね、時々思い出すの…。その度に、やっぱり今でも少し……怖い」
それを証拠にほんの僅かに壱予の指先が震えた。
その様を見て取ったが顔を曇らせるのに、努めて笑って見せる。
「けどね…あの時、が助けてくれたから…私はここに居るのよ?だから私はこの怖さにだって耐えられるし…のせいだなんて、決して思わないわ」
強く言い切る友人の声に顔を上げれば、真っ直ぐな瞳とぶつかって。
暫し黙って見つめ合ってから、口元に苦笑を浮かべる。
「本当に……壱予は強いよね」
「そう?何処かの誰かさんが頑固なんだもの…これ位じゃないと付き合って行けないわ」
「うっ…ご、ごめん」
あっさりと言ってのける壱予にほぼ反射的に謝ってしまい、互いに顔を見合わせると思わず吹き出した。
…恐らく、自分も壱予も、あの時の事を完全に忘れる事など出来ないだろう。
否、忘れる事を望まない……人としての習性で何れは消えて行く物だとしても、時折思い出しては覚え続けて行く事を願う。
そうする事で恐怖や罪の意識に苛まれるのだろうとも、それ以上に現在ここに在る自分を形作る一部であるのであれば。
それすらも受け入れて尚、過去を否定せず、今の自分として前に進む事を希望する。
これから生きて行く上で訪れる多くの選択肢を前に、後悔だけはしない様に―――
「じゃあこの話はこれ位にして…折角のお茶の時間を楽しまない手はないわね!、最近の勉学の内容とかはどうなの?武術の方は誰かから一本取れた?」
一頻り笑い合った後、私から振ったのだけどと前置きしつつ話題を切り替える壱予に頷いて、も他愛ない会話に花を咲かせた。
「…昨日も良い所までは行ったんだけど…やっぱり二刀流相手だとなかなか上手く隙が付けないんだよね…。そりゃあ実力的にはまだまだだし…手加減だってしてないって言ったって、それなりに絶対してるに違いないんだろうけど…」
その点、逆に羽張彦は絶対に手抜きはしない――が、故に大体何時もこてんぱんにのされている。
前に風早に、何処の子どもですか…と苦笑混じりに評される程だ。
だが自分にとってはその方が丁度良かった。
全力でぶつかる程に、今の時点での自分と相手との実力差がどれ位あるのか、正確に測る事が出来る。
当然、口では何を言っても日々鍛錬を重ね続けている兄弟子達には到底足元にも及びはしないのだが…。
それでも自らの実力把握が出来るのと出来ないのとではまるで話が変わって来る。
その点鍛錬を行う相手としては、ある意味羽張彦が一番相性が良いのかも知れない。
風早はその性格を表すかの様に教え方も丁寧で、力加減に関しては絶妙で、今の自分に合う形で調整して来る。
武術を見てくれる三人の中では一番教え方が上手いと思う。
…で、問題の残った一人はと言うと。
確かに、羽張彦より断然教え方は良い方なのだが…何と言うか…如何せん、何処か感覚的なのだ。
元々普段から得手としているのが二刀流故に、やはり勝手も違うからと言う理由もあるのかも知れないが、
自分と対する時…手加減をして来るのだ――それも本人の無意識の内に。
幾ら手心は加えていないと言われた所で、羽張彦との鍛錬を前に見せて貰った身としては素直には頷け
なかった。
二年も続けてくれば相手との力量位、見抜く事は出来る様になる。
それは相手が本気であればある程に、例え軽くあしらわれたとしても明確な指標となる。
それを本人に悪気はないにしても無意識に緩められているとなると…もう、如何にもならない。
…まぁ、手加減されていても未だ一本も取れない程の自分の腕では高望みすぎなのかも知れないが…。
どうしたものかと唸り始めるに茶器を置くと、壱予も小さく首を傾ける。
「そうねぇ…私も武術に関しては詳しくないから……って、あら…?」
不意に声を上げる彼女にその視線を追って振り返ると、向かい側の廊を歩いて行く姿に思わず名前を呼んだ。
「あれ…耶雲?」
噂をすれば何とやら。
つい今しがた話をしていた件の人物である耶雲は、呼び声に気付いてか足を止めると此方に歩み寄って来た。
「何だ…こんな所に居たのか、二人して」
「うん。意外と穴場でしょ?ここ。…ところで、もしかして…探してた?」
言外に何事かあったのかと含められた意図を正確に読み取り、是と首肯する。
「でも、午後の武術の時間まではまだあると思ったんだけど…」
「今日の担当は羽張彦だろう?だがあの状況ならまだ先になりそうだがな…」
「は?」
一体どう言う意味だろうと思わず疑問の声を上げれば、耶雲は苦笑を浮かべた。
「どうやら課題を済ませてなかったみたいでな…今、風早と柊を巻き込んで悪戦苦闘してる」
「ああ…成る程…」
その様が容易に想像出来てしまい自ずと納得する。
「なら、今日の教え役は耶雲が代わってくれるとか?」
恐らくそんな状況にあると言う事は、あの二人が付いているにしても、羽張彦が何時終わるか知れない。
だからこその言だったのだが、予想に反して耶雲は済まなさそうに眉尻を下げた。
「いや、出来るなら俺が代わってやっても良かったんだが…他に用事があってな。その上、師君から頼まれ事をされてしまって…」
「そっか…じゃあ仕方がないけど…って、頼まれ事?」
「ああ。実は其の事でお前を探してたんだ。師君に今日、これから客人が来るらしくてな」
「……客人??」
耶雲の口から出て来たその単語と、自らを探していたと言う理由がすぐには繋がらずに、は何度か瞬きを繰り返すしかなかった。
***
それから数刻足らず、は昼中の雑踏の中に居た。
耶雲曰く、午後に来る客人の為に岩長姫から茶菓子の一つでも買って来いとの事で。
女官とかに頼むのではなく、丁度通りかかったらしい耶雲に言い付ける所が何とも岩長姫らしいが。
結局、用事があって行く事が出来ない耶雲に代わり、羽張彦が課題を終わらせるまでまだ時間のある自分が
その任を引き受けたのだった。
「…ようは、お使いって所かな…?」
と言っても、別に嫌だとかそう言う訳でもなく。
下町に降りるのは嫌いではないし、賑やかで人の笑顔に溢れている中で店を見て回るのは逆に好きだったり
する。
普段でも最近は、何もする事のない時にはちょくちょく露店の品などを見に来たりする程だ。
活気に満ちた町は、それがそのまま人々の生活を如実に物語っているのだと思う。
…嘗て自分が育ったあの村にも、確かにそれなりの通りがあり店もあったのだが、貧しさ故か何処か閑散としていて活気も何もなかった気がする。
それを考えればやはり、流石は橿原宮の下町…女王の御膝元と言った所なのだろう。
そして人々の笑顔は、そのままこの国の治世へと結び付く。
“国は、民”と道臣が言っていた意味を、町を見る事でより深く実感する事が出来た。
大通りに歩を進め、暫くすると四辻の一角にある店の前で足を止める。
その気配に気付いてか、商品を整理していた壮年の店主は振り返るなり、人の好い笑顔を満面に浮かべた。
「おや、ちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは、おじさん。見させて貰っても良い?」
へらりと笑みを返しながらのの言葉に店主は快く頷いた。
此処は下町に来た時には必ず寄る…所謂、行き付けの菓子屋で。
初めて覗いた時には、店先に並んだ色とりどりの様々な菓子に思わず目を奪われ。
値段も、それこそ子どもの駄賃で買える物から高級な物まで幅広く、その時試しに買って帰ったお団子を口にした時から、好んでよくこの店を利用していた。
「ああ、ゆっくりと見て行っとくれ。そうそう、新しいのもこの前入って来てなあ…」
「そうなの?うーん…それってお客さんに出しても平気な感じ?」
「ははっ、ウチの菓子は何処に出しても恥ずかしくない代物だよ。何だい、どなたかいらっしゃるのかい?」
「うん。何か、今日これから岩長姫を訪ねて来られる方がいらっしゃるみたいでね…」
「そうかい…じゃあちょっと待っとくれるかい?折角だ、奥に置いてあるのを持って来てあげようかね」
茶請に向いてるのを何点か出して来るよ、と店の中へと向かう背中にありがとうと一言告げて。
店主が戻って来るのを他の菓子を見ながら待っていると、不意に耳に飛び込んで来たあどけない声にふと顔を上げる。
「お母さん、早く早くー!!」
見れば、反対側の通りを幼い男の子が此方に向かって駆けて来る所だった。
恐らく目的はこの菓子屋の様で、後ろから一緒に来ているのだろう母親を呼ぶ無邪気な姿に何となく微笑ましくなる。
だが、丁度四辻の中間に差し掛かったと同時、他方から響いて来たガラガラと言う耳触りの悪い車輪の音に
思わず目を見開いた。
飛び出したのはどちらが先か―――
「危な―――!!」
上げかけた声は一瞬遅く、みなまで言い終える事なく馬の嘶きと人々の悲鳴に掻き消えた。
自分の心臓の音が煩い。
嫌な想像が頭を過るが、土煙が収まった後に現れた母子の無事な姿にほっと胸を撫で下ろした。
あの瞬間に母親は我が子を助けようとその身を投げ出し、それをぎりぎりの所で馬車が避けた様だった。
「貴様っ……高貴なる方の道行きを塞ぐとは何事かっ!?如何な子どもとて許されぬぞ!!」
「も、申し訳ありませんっ…どうか、お許しを…!」
御台からの罵声に泣きだす子どもを抱き締めたまま、震えた声で母親が許しを乞う。
しかし、その必死な嘆願は、馬車に乗った官服を纏った男の一言で無残にも切り捨てられた。
「何をしておる。儂は先を急いでおるのだ…その様な奴ばらなど捨て置いて、早う進まぬか!!」
「はっ…只今っ!」
尊大な態度で苛付きを隠そうともせず、吐き捨てるかの様なそれにの目がすっと眇められる。
男の言葉に応じて蹲ったままの母子に向き直ると、御台の従者は馬を打つ為の筈の鞭を振り上げ、声を
荒げた。
「ええい、何時までそうしておるつもりだ!さっさと其処を退けっ!!」
そのまま、いっそ無慈悲に母子へと容赦なく鞭を振り下ろそうとするのを見て。
一切の躊躇なく、は今度こそその場から駆け出した。
鈍い音が辺りに響き、誰もが母子が撓った鞭に打たれたのだと思った。
だが、現実にはそうはならず、それを阻止したのが母子と馬車の間へと割って入った一人の少女――だと言う事に目を瞠る。
間一髪…母子を庇う様に滑り込んだは、その勢いのまま腰に下げていた自らの太刀を抜かぬまま、反射的に両手で翳し迫る鞭を受け止めた。
その打撃は相当な物だったが、今までの鍛錬のお陰か、何とか耐える事が出来た事は幸いだった。
鞘に鞭の先が巻き付き、ぴんと張り従者と自分との間を繋ぐ。
体勢を崩さない様にしながら背後へと目をやれば、怯えながらも母子の無事な姿には内心ほっと息を
吐いた。
「な…何者だ、貴様は…」
思いもしない乱入者への驚愕からか、上擦った声につと視線を向ける。
「……無抵抗な者に対して鞭を振り回すなんて、正気の沙汰とは思えませんが?」
「何だと…!?」
予想外に冷たく抑えた声音に、自分がかなり怒っているのだと言う事に今更気付く。
…それもそうだろう。
こんな無体な状況を目の当たりにして憤りを感じずに居られる程、自分は出来た人間ではない。
それこそ如何にも子どもの考えだと判じられたとしても、見て見ぬ振りだけは出来なかった。
鞭が巻き付いた太刀を支える両手に、均衡を保つ為にぐっと力を込めながら、は従者を…ひいては、
その後ろの馬車に座する男を睨む眼を険しくする。
「確かに…飛び出して来たこの子も悪いのかも知れない…けれど、ここは公の大路。幾ら急いでいるからと
言って、私道に入り込んだ訳でもない…それを鞭打つとは、些かやり過ぎではないですか?」
「何をガキ風情が知った様な口を。貴様らと官吏様とではそもそもの格が違うのだ…下賤の者が道を譲るが
当然であろう?」
吐き捨てるかの如く言い放たれたその内容に、は更に眉を顰めた。
と、同時に何処までも冷めた感情が脳内を支配する。
何を口走っているのか分かっていないままであるのならば…呆れを通り越して、いっそ哀れだ。
「…それを本気で言ってるとするならば…貴方がたの言う格など、大した物ではありませんね」
「くっ…貴様愚弄する気か!?」
「愚弄も何も…思った事を口にしたまでですよ。自らの位を誇る前に、人としての道理をまず弁えたら如何ですか?……この恥知らず!!」
「こ、このっ…!!」
流石に最後の一言は痛烈だったらしい。
顔を憤怒に赤く染め、口を戦慄かせると従者はぴんと張ったままだった鞭を手元に戻す為に強く引こうとし。
高低差のあるこの体勢では、如何にもの方が不利だった。
それも大の男と、幾らある程度鍛錬を積んでいるとしても未だ子どもの、少女であるとの腕力では渡り
合おうにも限界があった。
ぎりぎりまで太刀を持つ手に力を込めるものの、徐々に痺れが走り、感覚がなくなって行く。
「くっ…」
踏ん張っていた足も地面を擦り、体勢を保つ事が出来ずもう駄目だと、正にそう思った瞬間―――
ふっと、太刀を支えた両手の負担が急に軽くなる。
鞭は撓って従者の手に戻る事なく、再びとの間をぴんと張った。
「彼女の言う事に間違いはないな」
すぐ横から聞こえた声に視線を向ければ、濃藍の髪の見知らぬ少年が割って入り、を助ける様に同じく
鞭を片手で手前へと引いていた。
不意の事に驚いて目を丸くするの視線と少年の深藍の瞳がかち合うが、それも一瞬の事で。
少年は従者と車上の男へと目を向ける。
「民があってこその国、と…俺は幼い頃から教えられて来たが…国の官吏であれば、当然その様な事…先刻承知である筈」
その声は、至極当然の事実を何処までも淡々として語る。
正論過ぎて言い返す事も出来ぬまま歯噛みする従者や男の姿を関する事なく、少年は続ける。
「だが、よもやその意味すら履違えての言動であると言うのであれば………」
―― 国の官人が、聞いて呆れる。
そこまで来て一度言葉を切ると、少年は心底の嘲りに口元を歪め、そう強く言い放ったのだった―――
2011/10/18.
【あとがき】
別名、道臣+オリキャラ祭り!(爆)
この話の中での一つの目標は、どれだけ遥か4のキャラを出して行けるか…だったり。これで道臣さんは達成ですね(笑)
そしてそして…漸く、漸く目当ての御仁の御姿がっ…!!
そんなこんなで一章が始まりました。この章は所謂、『過去編』となって行きます。
相変わらずシリアス風味の超微糖な感じですが、切なさやらほのぼのさも出していける様に頑張りますので、宜しくお付き合い頂ければ幸いです。