この太刀を初めて鞘から引き抜いた時から……もう、決めていたんだ―――
外伝【一】 願う覚悟
しまった、と思った時には遅かった。
決して気を抜いてはいけないと言われていたのに…。
柄を握っていた右手の甲に痛みが走り、そのまま弾かれた太刀はの手を離れ、大きく弧を描き地面にその刀身を突き立てる。
「っ…――」
「!?」
声を上げる事はしなかったが、右手を押さえてその場に膝を着いた。
端で鍛錬の様子を見ていた兄弟子達が駆け寄って来る。
押さえた指の間から滴る赤色を見て、風早は痛ましげに眉を顰めた。
「…傷を見せて下さい。早く治療しないと…」
「悪ぃっ!!大丈夫だったかっ!?」
傷を負わせた当人である羽張彦が慌てた声を上げるのに、柊が冷たい視線を向ける。
「大丈夫も何もないですよ羽張彦…まだ太刀を握り始めて間もない者を相手に全力を出すと言うのは一体どう言う了見ですか」
「いや、わざとじゃねぇって!こう、何と言うか…力加減がだな…」
「わざとであったなら今この場で私が貴方を沈めてますよ。に何かあったらどうする気だったんです?」
「だから、こうして謝って…」
「謝れば済む話ではありません。…丁度良い、貴方には色々と言っておかねばならない様ですね…」
「いやいや、ちょ、待てって、柊!」
「…容赦しなくても良いぞ、柊。お前は一度痛い目を見ないと分からんだろう」
「このっ…耶雲!裏切る気かっ!?」
主に自分に対しての雲行きの怪しい会話に焦り、喚く羽張彦の言をしれっと無視すると風早の隣に耶雲は膝を着いた。
その言葉に一つ、心得たとばかりに頷くと柊は淡く微笑みすら浮かべる。
下町の娘が見れば見惚れる程のそれも、今のこの状況では背筋に汗を流して頬を引き攣らすしかない。
「では、許可も下りた事ですし…少しあちらで話しましょうか?」
「いやっ、別に俺は話さなくてもっ…」
「遠慮なさらなくても結構ですよ。さあ、行きましょう」
嫌がる羽張彦の肩を掴むと、有無を言わさず少し離れた場所へと引き摺って行く柊を見送って。
小さく嘆息を落としてから改めて、耶雲はの右手へと視線を移した。
「…風早、どうだ?」
その間もじっと傷を診ていた風早は耶雲の問いかけに、無意識に強張っていた身体から力を抜いて答える。
「見掛け酷い様ですが…大丈夫です。これならすぐに治せますよ」
右手の甲に走った傷は、溢れる赤に比べてそれ程深くはない物だった。
表面を切り裂いただけに止まり、筋を傷付けるまでには達していない……これならば、何も支障はないだろう。
それにほっと安堵して耶雲は顔を上げる。
「そうか…良かった」
「ごめん……私が気を抜いたから…」
「が謝る事はないだろう。これは全面的に羽張彦が悪い」
「そ、そう…かな?」
「そうだ。…まぁ、あいつへの説教は柊に任せるとして、一応巻く為の布でも持ってくるか?」
「そうですね、お願い出来ますか?」
風早の言に分かったと首を縦に振ると、耶雲は布を取りに邸内へと足を向けた。
*
「……ごめん、本当に…面倒掛けちゃって…」
二人きりとなり、先程とは打って変わって静かな空間が横たわる。
そんな中、自分の負傷した右手を取り、もう片方の手を翳して癒しの術を行使する風早にはぽつりと呟いた。
耶雲は、羽張彦が悪いと言っていたが…それは違うと分かっている。
自分が他事を考えていた為に起こった事故だ。
それはやはり、自らの不覚が招いた事に相違なく、だから…これは自業自得でしかない。
申し訳なさそうに眉根を下げるに、風早は思わず苦笑する。
…この妹弟子は、如何にも自身を貶める方向に考えが向いてしまう時が偶にある。
最近はそれもおさまって来たかとも思ったのだが、それでもふとした瞬間に未だ顔を覗かせる様だった。
少しでも上を向けれる様に、力になれたならと何時でも思っているのに…だからと言って、自分から人に頼ろうとは絶対にしないのだ。
彼女の性格を考えれば仕方のない事でもあるが、それでも自分はその度に、歯痒く感じてしまって如何しようもなかった。
「…面倒な訳ないですよ。は、気を回し過ぎなんです」
そんな事より自分の心配をして下さいと言えば、僅かに笑いながらもう一度ごめんと口にする。
その声音が少し上がっているのに、自責の念は自らの内で上手く昇華した様だ。
術を行使したまま、続けて何かを言い掛けて……しかし。
ふと、口を噤んだ風早にどうしたのかとは首を傾げる。
「風早…?」
不思議そうな声で名を呼べば、その金色に真剣な彩を帯びるのに思わず見入ってしまう。
暫しの逡巡の後、風早はゆっくりと口を開いた。
「無理を…してるんじゃないかと思って」
「え……?」
きょとんと見返すの姿に、苦い思いが走る。
…その身体をよくよく見てみれば、すぐにも気付く事だった。
今の、この右手の傷だけではない。
が太刀を握り始めたのは、ほんの一週間程前…それまでは壱予との事件でやはり怪我を負っていて。
動かない腕を庇いつつ、片手で木刀を使っての鍛錬を行っていたのだ。
否、思い返せば初めて出会った時からは傷だらけだった。
それは、自身が望んだ事ではないとは言え、見ているこちらが痛々しかった。
それと同時に、もっと違う道が選べたのではないかと思うのだ。
とて…師君の弟子である前に、一人の少女だ。
弟子だからと言って、自分達と同じ様に剣を習うよりも、ごく普通の…同じ年頃の娘の様に平穏無事な生活を選ぶ事だって出来たのだ。
彼女の友人である壱予や…それこそ、立場は違えど、自分が数年前から従者として付き従う…あの幼き姫の様に―――
それに…“太刀を手に取る”と言う事が何を意味するのか…聡い彼女が分からない訳でもないだろうに…。
の決意は知っている。
だが、そう思う故に今この場で口にせざるを得なかった。
「余り…無理をしなくても…焦らなくても、良いんですよ?」
零れ落ちたそれは、何処までも自分を思ってくれた上での物で。
風早が何を案じての言葉なのかを容易に察すると、は苦笑して緩く頭を振った。
「風早……私は、無理なんてしてないよ」
確かに、心の何処かで少しばかり焦っていたのかも知れないけれど…。
一朝一夕に出来る事であれば誰も迷いはしないだろう。
それが唯漠然と…“強くなりたい”と願うだけならば尚更の事。
だが自分には、“強くなりたい”理由がある。
無事な方の左手をぐっと握り締め、は静かに続ける。
「前に言ったよね?強くなりたいって…。皆がくれる優しい気持ちに応えられる自分になる為にも強く、って…それってきっと単純に力だけの事じゃないってちゃんと分かってるんだ……だけど」
もし仮に、この穏やかな時間が壊れる時が来たとして。
それが圧倒的な力を持ってして訪れたなら…何も抗する事も出来ぬまま、唯指をくわえて見てるだけなんて出来ない。
大切な人達の背に庇われて、彼らが傷付き倒れてしまう事があったとして…その上でのうのうとして生きる等、自分にはきっと耐えられないだろう。
それならば、共に並び立てるだけの力が欲しいと、は思うのだ。
だからこそ―――
「私は……風早が、皆が傷付く姿なんか見たくないんだ。もしそんな時が来た時に…何も出来ない自分は嫌だから…強くなりたい」
言い切って、は笑った。
それで風早も悟ってしまう。
ああ…もう、彼女は決めてしまっているのだ、と。
太刀を、武器をその手にする意味を…分かり、踏まえ、その上でこの道を敢えて選んだのだ、と。
そうであるのなら、それ以上何も言う事は出来なかった。
けれど…せめて。
「……心配位は、させて下さいね?」
「風早を……皆を守れる位強くなれるんだったら…これ位平気だよ」
返った思わぬ言葉に一瞬、息を詰める。
と、丁度その時を見計らった様に耶雲が戻って来て、何とか平静を取り戻した。
「傷は塞がったみたいだが…一応暫くはこれで巻いておいた方が良いな」
「うん、分かった。…さて、と…私、羽張彦の所に行って来るよ。やっぱり、ぼけっとしてた私も悪いと思うし」
「そうか?あれ位じゃあ全然足りないとは思うがな」
同情の余地もない耶雲の言に、若干、あははと渇いた笑いを浮かべつつ、渡された白布をきっちりと右手に巻くとその場に立ち上がる。
「じゃあ風早、治療ありがとね!」
言って、は未だ説教が続いているらしい二人の方へと足を向けた。
「大した傷ではなくて良かったな。………………おい、風早?」
「……え?あ…はい。そうですね……」
空いた微妙な間に怪訝な顔を向けて来る黒い兄弟子に対して、軽く笑う事で誤魔化そうとするものの……無理だった。
はあ、と大きな溜息を吐くと同時に俯き加減に片手で顔を覆う。
今の自分の顔は、如何にも人に見せられる物じゃない。
それ位、どうも緩み切ってしまっている自覚がある。
「風早…?」
「いえ……本当にもう…かなわないなあって」
――幾度も繰り返して来た時空の中で、自らがあの幼き姫を守る、とそう誓いを口にした事はそれこそ幾度となくあった。
しかし、自分に面と向かって逆に…それも“自分を守る”と言われた事など、終ぞなかった。
この、今までとは違うと言える時空で初めてで…。
その一言が風早の心を乱すのも、こんな感情を抱くのも…恐らく初めての事で。
けれど、決して悪くはなく…それ以上に―――
「……俺も、守りますから…」
小さく呟いたそれは、自らが仕える幼き姫に捧げた誓いと同じ位に強く。
だが、その根底にある感情は全く別の物でありながら、本人にも抗い切れぬだろう熱を微かに、孕んでいた。
***
柊と羽張彦の所へ向かう途中に、ふと足を止める。
足元には半ばまで地面に穿たれながらも決して存在感を失わないままのそれがある。
自分が助けられたあの雪の日から当然の様に傍らにあった、黒塗の太刀。
鈍く光るその柄に手を添えると、は一思いに突き立ったそれを引き抜く。
年齢の割に小柄なには、やはり大振り過ぎる感があったが、それでも柄を握る手には不思議な程に何よりもしっくりと馴染んだ。
未だ曇りもない刀身が鏡の様にを映し出す…そんな様を見詰めながら、僅かに目を細めると口を引き結んだ。
――太刀、とは武器だ。
人を、生けるものを傷付け、その命を屠る事を目的として作られた物。
そしてそれを手にするという事は、逆も又然り…。
あらゆるものの血に塗れ、果てには自らの死をも招くかも知れない。
先の風早の言葉も、元を正せばそれを示唆したものなのだろう。
けれど…自分は選んだから。
勿論、迷わなかったと言えば嘘になる。
正直考えれば、今でさえ怖くもある。
それでも自分は守りたいのだ。
守る為に強くなれるのであれば…迷いも、恐怖も打ち捨てられる。
それが精神的な事であれ手段であれ…一週間程前、この太刀を初めて鞘から引き抜いたあの瞬間に、全てを決めた。
覚悟は出来ている。
ならば後は…進むだけだ。
前へ―――一歩一歩を踏み締めて、己の願いを叶える為に。
小さな鍔鳴りを立てて太刀を鞘に納めると、一息の後には歩き出す。
その時、まるでの意志に応えるかの様に腰に佩いた太刀(アメノハバキリ)が微かに、鳴った気がした。
2011.12.08.了
【あとがき】
序章と一章との間の小話…。いきなり戦える人間って絶対居ないよねと思って出来た、ヒロインの“覚悟”のお話です。
さり気に柊と羽張彦の掛け合いが好きだったりします(笑)
そして風早、この頃からはっきりと…て言う…ね。まだ忍人さんが来る前に一早く自覚させておきました!頑張れ!
今後こう言った小話を外伝として章の合間にちょこちょこ書いて行こうと思ってます、はい。
宜しければ、お付き合い下さいませ…。