はらり、はらりと舞い落ちてくる薄紅の花弁を見て。
まるで、雪の様だと…。
ああ、だから雪の事を六花と呼ぶのかと、何となくそう…思った。
散 華 〜sange.〜
思う様に身体が動かない。
自分の身体の筈なのに、一体どうしたと言うのだろう。
どうにかして起き上がろうと指先に力を入れた途端に全身に激痛が走った。
痛みに眉を顰めながら、無意識に自身の腹部に手をやる。
遅れてやって来るぬるっとした感触に、ゆるゆるとその手に視線をやると赤黒い――
自身から流れる血で染まっていた。
腹に穿たれた傷。
手を濡らした赤黒く咲いた華。
その二つが先程までの凄絶な戦いと、今のの状態を如実に物語っていた。
そうだ…覚えている。
中つ国を、豊葦原を救う最後の鍵である龍神の封印。
その封印さえ解けば…滅びた中つ国を――私達の故郷を、取り戻す事が出来る。
だが、それを常夜の国が許す筈もなく…。
だから私は一つ、嘘を吐いた。
***
「龍神の封印を解く為、聖域に入れるのは、神子と八葉のみ」
これは、真実。
龍神は中つ国の護り神…その聖域は文字通り神域となり、許された者でしか触れる事すら
出来ない。
「私は此処でお別れです」
「えっ…そんなっ…っ!?」
私の言葉に一際驚いた顔をしたのは、やっぱりと言うか何と言うか…
予想通り、千尋だった。
駆け寄って来る千尋の前で膝まつき、私は中つ国の正式な臣下の礼を取る。
「二ノ姫…我が主――どうぞご無事で。どうか、龍神をお喚びになり、この中つ国を…
ひいては、豊葦原をお救い下さいませ」
「ちょっ、やだよっ!!私、の事、部下だとか家来だとか思ってない!
だってはっ―――」
必死になって捲くし立てる千尋の口を軽く手を当てるだけで止める。
「分かってる。千尋の言いたい事…ちゃんと分かってるよ。でも、これは一応ケジメ、ね?」
苦笑しながらそう告げると少し落ち着いたのか、千尋はこくりと小さく頷いた。
「…私は、八葉ではないから、この先へは行けない。だから…此処で待ってる。
千尋達が龍神を喚び、無事な姿で、此処に戻って来るのを信じてる」
「……」
「ほら、しゃんと前向いて。……皆が、待ってる」
まだ何か言いたそうな千尋に微笑んで、はその背を押してやった。
「…っ、!絶対に…また会えるよね?」
「当たり前。私を誰だと思ってる?私の事…そんなに信用ない?」
「う、ううんっ、信じてる」
「そう…じゃあ、行っておいで。 ………私は此処でやらなきゃいけない事がある…」
「…?」
聞き取る事は出来なかったが、呟くと共に視線を何処かへともなく外したその内に宿らせた
鋭い光に千尋が思わず彼女の名前を呼ぶ。
何故だろう?
目の前に居る筈なのに何故かの事を遠くに感じる。
しかしその表情も本当に一瞬の事で、気のせいだったんだろうかと何度も振り返りながらも
千尋は八葉達の所へと駆けて行く。
合流した彼らはそのまま龍神の神域へと歩いて行く。
もうすぐで神域の結界の中へ入ると言う所で、唯一人、ふとの方を振り返った人間が居た。
何時もの様な不機嫌な、眠そうな顔ではなく、普段とはまるで違い真剣な表情で。
そんな彼には今までと変わる事なくにへらとした笑顔を浮かべるとひらひらと手を振ってみせる。
やがて、彼も仲間と共に神域の結界の中へと消えて行くとはゆっくりとその手を下ろした。
「…別れは済んだか?」
まるでその瞬間を狙ったかの様な言にはうんざりと溜息を吐く。
お前達の行動は、本当にワンパターンだな、と。
「ああ、見送りをさせてくれた点としては感謝させて貰うよ。唯、あんた達の思惑から言うと
――『それはこっちの台詞なんだけど?』」
薄く嘲りの笑みを刷くとは腕を組みながら吐き捨てる様に言う。
それに呼応するかの様に近くの茂みから常夜の国の兵士達がぞろぞろと現れる。
その手には太刀やら槍やらを持ち、切っ先はへと向けて。
「…確か、アシュヴィンは神子の八葉として歩む、とそれを示し常夜の国にも了承させたと話を
聞いているが…?」
「黒雷様は甘くていらっしゃる。我等はナーサティア様の部下…神子の首を、と思ったが邪魔立てする
のであれば貴様の首を殿下へと献上する!!」
「中つ国の残党は、一人残らず皆殺しと言うのが殿下の命令だ…悪く思うな!」
「悪く思うも何も…最初に言った筈なんだが?それはこっちの台詞だ、と」
千尋や風早…他の八葉の皆…そして那岐――他の多くの中つ国の仲間達…
彼女を、彼らを害すものは全て自分が許さない。
きっと千尋は自分との約束を守って、龍神を喚ぶだろう。
そして暖かくて優しい…嘗ての祖国を、自分達の故郷を取り戻す。
ならば自分も守るだけだ――彼女を、そして彼女が愛する全てを――それが、自分の役目ならば。
常夜の兵達が武器を手に多勢でに向かって雪崩れ込む。
それらを見据え、は腰にある自身の武器へと手を添えた。
***
『絶対に…また会えるよね?』
別れ際の千尋の言葉を思い出して、小さく苦笑した。
結局…それに対しての自分の言葉は、結果的に彼女への唯一つの嘘になってしまった。
血みどろで酷く重い自分の身体を引き摺りながら、は一本の樹の下でずるずると座り込んだ。
神域からは既にかなり離れた位置に居るのは明らかで…まぁ、それも自分が戦いながら出来るだけ
離れる様行動したのだから当然と言えば、当然であるのだが。
翳み始めた視界を上に向ける。
はらはらと、先程から風に乗って舞っていたのはこの桜の花弁だった。
満開ではあるが散り始めの桜の花――
「…そう言えば…よく行ったね……お花見とか、さ……」
中つ国が滅ぼされた時、千尋と風早と、そして那岐と共に逃れた異世界――橿原。
そこで過ごした切なくも穏やかな…今では懐かしくもある数年間。
戻りたいとは思わないが、あの場所は確かに自分達に柔らかな時間をくれた。
その時間の中で、春が来る度…満開の桜の下で…4人で…。
「……やっぱり、ばれてたか…」
「…千尋や風早を騙せても、僕を騙せるとでも思ってた?」
「…半分、期待はしてたかな?」
そう…騙せるなんて思ってなかった。
千尋とは又違う意味で、それこそ生まれた時から傍に居た君ならば…騙そうと考えるだけ、いっそ
無意味だ。
けれど…
そんな顔をさせたくは、なかったんだ…。
「…っ、馬鹿じゃないの?」
既に動かない自身の身体にそっと手を伸ばしたと思ったら、那岐はそのままを抱き締めた。
自分の肩口に顔を埋め、言う内容は罵倒でしかないけれどその声の震えと抱き締める腕の強さと、
そして己の肩を微かに濡らす気配でどんな顔をしているのかなんて、確認しなくたって分かる。
ほぼ力の入らなくなった手を辛うじて那岐の背中に回す。
その向こう、遥か遠く青い空の彼方で、天空へ向かい長く巨大なそれが白い体躯をくねらせ
昇って行く姿がぼやけた視界の中、見えた。
それは、召喚されし中つ国の護り神――
「無事…終わっ…たん、だね…」
「ああ…終わったよ。全部…皆も、千尋も、全員無事に…」
「そっか……良かった……」
那岐の言葉には安堵した。
これで、終わったのだ。
何時果てるとも分からない、血で血を洗う様な戦いも。
友を想い、仲間を想い、国を想い…そして愛する人を想い、心で涙を流し続けた千尋の戦いも。
そして…そんな千尋を最後まで守ると言う、自分に課した誓いと約束も、全て――
本当に、良かったと思う。
これからまだ中つ国の再興を成す上で色々と大変だとは思うけれど、それもこれまでの戦いの事を
考えればさしたる事ではないだろう。
全てを乗り越えて来た千尋は、彼女は、大丈夫だと…確信出来る。
唯、そう…思い残す事があるのだとすれば―――
ぐっと抱き締められた腕の力は変わらず、まるでしがみ付くかの様に強いままで。
そんな那岐には力なく小さく笑うとその肩越しに舞い落ちて行く桜の花弁を見詰める。
ああ、何かもう…その光景すらぼやけてしか見えないけれど。
けれど脳裏に焼き付いているあの日々の事が思い出されて…酷く、懐かしさを覚える。
「…行きたい、ね……出来るなら…もう一度……」
「……何処へ?」
「お花見……今度は、4人じゃ…なく、て……皆で…さ…」
――きっと楽しいだろう。
否…皆で行くのだから、楽しいに決まってる。
はらり、ひらりと舞い落ちる桜の、その様を翳って来た視界に映して。
はふっと一つ、深く、息を吐いた。
「本当に………綺麗、だね……」
「……?」
小さく呟く様な言葉に、那岐が名前を呼ぶ。
しかし、それに対する答えがの口から零れる事はなかった。
背中に添えられていた手がことりと落ち、彼女の全身から力が抜ける。
「……?」
蒼灰の瞳は閉じられ、再び那岐の事を映す事はない。
微笑すら浮かべ安らかとも言える表情で眠る彼女はもう……目覚める事は、ない。
何度彼女の名を呼びかけようとも、もう二度と――
冷たくなって行くをもう一度強く抱き締める。
零れる涙を止める術があると言うのなら、どうか教えて欲しい。
伝えたい言葉があった。
彼女にどうしても伝えたかった。
けれど、もう二度とその言葉さえ伝える事は叶わない…。
「…っ、―――っっ…!!」
満開の桜が舞い散る中で、悲痛な程の嗚咽だけが響き渡っていた。
***
「――ぎ…! …那岐っ!!」
ぱちりと目を開ける。
眼前に広がったのは数年前から見慣れた自分の部屋の天井。
そして幼い頃から傍に居た少女の姿で。
「……?」
「もうっ、やっと起きたよ…お早う、那岐」
「え……あ……おはよう…」
鸚鵡返しに取りあえず挨拶をして、ふと何故か宙にある自分の右手がの手に
しっかりと握られている事に首を傾げる。
まだ眠たそうな目を自分の手に不思議そうに向ける那岐に気付くと、は慌てて
その手を離す。
「あ、いや、何か凄く魘されてたみたいだったからつい、ね?」
あははと軽く笑ってそう言いながら頬を掻く。
しかしその手を見詰めたまま、何処かまだ起きている時よりも眠そうな那岐に小さく
嘆息すると立ち上がり部屋のドアの方へと向かう。
「那岐ー、早く覚醒してよー?今日は那岐が朝御飯の当番の日なんだからねー」
少し大きめな声でそれだけ告げるともう制服に着替えているは、膝を着いていた為
曲がったスカートの裾をさり気無く直してと下で待ってると言い残してさっさと部屋から出て
行ってしまう。
一人、残された自分の部屋で那岐はに握られていた手を唯、ぼうっと見詰めた。
魘されていたとは言っていた。
だがどうしてかどんな夢を見ていたのかと聞かれても答える事は出来そうにない。
何せ、夢の内容を全然覚えていないのだから。
…と、ふと自分の頬を流れるモノがあった。
「…え……?」
手をやると指先を濡らす、一滴。
自分の意図しないまま片目から涙が溢れていた。
夢の内容は全く覚えていない。
けれど、酷く悲しかった。
とても耐えられない程、辛かったのだけは覚えている。
それを考えるだけでまるで胸を押し潰されてしまう様で――
一度固く目を閉じるとその痛みに耐える様に那岐は胸元を強く握り締めた。
2006/06/13.