「よし、鍛錬止め!暫しの休息を取る!!」
よく通るその声を合図に、兵士達の間で張り詰めていた空気が一気に抜けた様だった。
それぞれがその場に座り込んで休んだり、談笑を始める様を眺めていた忍人は一つ溜息を吐くと
ふと、後ろに振り返った。
特に何かを感じた訳でもない。
本当に何となく振り返っただけではあったのだが…。
忍人の立つ場から少し離れた場所に立つ、一本の木立…その幹を背に立つ人物の姿に、再度
やれやれと言った風に嘆息する。
だが、その影に丁度隠れて見えなかったもう一人の存在と、そして彼が意味ありげに此方へと寄越した
視線と行為に目を見開くと、忍人は強く眉間に皺を寄せ、憮然とそちらの方へと足を進めた。
桜吹雪の中、君と
「やっぱり此処、か…」
其処は中つ国の中央、橿原の宮の外殿を出て直ぐ。
広く、平原の様になっている場所で、大人数で訓練等をするには見通しも良く最適と言える。
それが軍の鍛錬をするのであれば尚更だろう。
予想通り、訓練中の兵士達に檄を飛ばす――凡そ、一ヶ月程前国を守る要である四道将軍の一角に岩長姫からの推薦も
あって、抜擢されたのだが…――争乱時から変わらず、紺色をした衣服を纏った後ろ姿を見つけると、は口元に
薄く笑みを刷いた。
手近に生えている木々の内一本の幹に背を預けると、面白そうにその後ろ姿を見詰める。
勿論、出来得る限り気配は消して、だ。
故に自分の存在には未だ気付いてはないだろう。
此処で気が付いてくれれば、それはそれで嬉しいが、別に気付いていなければそれでも良い。
…あの時には考えにも及ばなかった。
これも争乱時からの一種の癖の様な物なのだが、彼が訓練で兵達に指揮する姿を唯、黙って見ているのも実は
嫌いではない。
まぁ、自分が来ている所を彼が気付いた時には大きな溜息と共に、「来たなら来たで何で呼ばないんだ」と
又小言を喰らうのは目に見えているだろうけれど…。
と、そんなに声を掛ける者があった。
「おや?これは我が愛しき女官長殿…この様な場所で一体どうされたのです?」
「…斯く言う博識高き軍師殿は如何なされたのでしょう?確か常世の方へ道臣殿と共に今後の両国間での政策に
ついての会議に出席する為に暫く国を空けられると聞いておりましたが…?」
「…流石ですね。その通りだったのですが、予定より早く終わりまして。なので状況等結果を含めて女王陛下に
ご報告申し上げた所です」
「…で、首尾は?」
「上々ですよ。今後、国同士、それぞれの再興の為には助力を惜しまない。手を携え、共生の道を――と。
親交国家としての同盟に漕ぎ付けましたよ。まぁ、元々我らが女王と常世の国王は懇意でいらっしゃいますから…
万事、恙無く」
まぁ…異論がある方々は両国内、未だいらっしゃる様ですが。
続くその言葉には苦笑する。
幾ら数年と続いた争乱が、常世に巣食った黒き神のせいだったとは言え、常世が中つ国に侵攻し、嘗てこの国を
滅亡せしめた事から始まったのは事実だ。
そこから生まれた軋轢は、簡単に解消出来る物ではない。
それこそ、それなりの時は必要となるだろう。
だが…それだけに囚われてしまう程、この国の人達は愚かではない。
勿論、常世に生きる人々とて同じだろう。
でなければ黒き神と対峙したあの時、あそこまで心を一つに合わせる事は出来なかった筈だ。
人は、失われた過去を胸に、それでも前に進む事が出来る。
だからこそ、この世界には希望が…未来がある。
互いが手を取り少しずつでも歩み寄って行けるのならば、より良い未来を切り拓ける。
そしてその為に、自分達は今、此処に在るのだから。
「ふふ、それこそ明晰な兄弟子殿の頭の使い所じゃないですか」
見惚れる程綺麗な笑みを浮かべながら告げるに、柊は思わず溜息を吐きたくなった。
がこう表情をする時、そのほぼ大半が面白がっている事だと分からない程短い付き合いでもない。
だがその起因する所が絶対の信服からだと分かっている為、余計に性質が悪くもある。
「全く…貴方ときたら…容赦ないですね。まぁ、お任せ下さい。全ては、我が君と女官長殿の御為に――」
私は余計なんだけど。
胸に片手を当て、恭しく頭を下げて見せるとは半目になり、即答で言い切った。
ああもうそれは実にキレイさっぱり、ばっさりと。
これが彼女の、“彼女”たる所以だ。
は、何に対しても言う時迷わず言い切る。
無論、普段何時でもがそうではない。
彼女自身に彼女なりの尺があり、それで自身が必要だ、と言う時に率直に告げるのだ。
その為、その真意を測る事の出来ぬ者は、唯々彼女は傲慢なのだ、と身勝手に断ずる。
彼女の本質を見抜く事も出来ないくせに、だ。
逆に、その本質を見極める事が出来れば、自ずと彼女の魅力も分かる。
彼女が…がどれ程、心惹かれる存在であるのかを。
だが、そう言う事は自分達だけが分かっていればそれで良いとも思う。
別に好んでこれ以上、厄介な虫を近付けたくなどない。
牽制するのは自分の知る、数人だけで十分だ。
…一応既に彼女は選んでしまってはいるのだが…それとこれとはやはり話は違う。
その点、のこの性格は、実に上手い具合に虫除けに働いていると言える。
何はともあれ、結局自分を含め、風早や耶雲も妹弟子が可愛くて仕方ないのだろう。
しかし、は甘えると言う事を決してしない。
初めて会った頃と現在を比べても、確かに心を開いてくれた。
だが心の奥の奥…全てを、と言う訳ではない。
傍目には全てを見せている様に見えて、だが、最後の扉だけは決して開こうとはしない。
それはある意味、彼女が生まれてから、師君の養女として…。
自分達の知っている彼女が、“”と言う名を与えられて現在まで…共に生きて来た、その始まりである
あの出会いよりも以前に、彼女の根本の所に刻まれてしまったものなのだろう。
――誰も助けてはくれない、頼れない…伸ばした手を掴んでくれる者など居ない…
ならば、取るべき道は一つ…何があろうとも、例えどれ程無謀であろうとも、自らの力だけで乗り越えなければならない。
それが、自分が生き残る為の最善の策だったのだ。
当初程頑なでもないものの、彼女の傍に居る者にとっては、それ故に――
その事実が何処か寂しく、何処か歯痒い。
…とは言え、今ではそれもある一人の人物にはかなり緩和されて来ている様ではあるが。
そんな事を思いつつ、目の端でその当人の姿を視認した柊は軽く口元を持ち上げると何事もなかったかの様に
改めてに向き直る。
「しかし、此処に居ると言う事は…仕事などは終わったのですか?」
「うん…まぁ、今日の分は粗方ね」
全部とは言えないが、今日終わらせておかなければならない量は取り敢えず済ませて来た。
後に残ったものは下官に任せてしまっても何ら問題のないものだ。
千尋は未だ執務が残っているが、風早が付いているから特に心配はないだろう。
そう考えつつのの言葉に微笑んだまま、確実に此方へと近づいて来るよく慣れた気配に敢えて無視を決め込む。
まだは気付いてないらしい。
「そうですか…。ならば、これから私と遠駆けでも如何ですか?」
久しぶりの帰郷ですし、今日は私も時間が空いているんですよ。
「…は?」
そう付け加える様に持ち上がった誘い話に、は思わず固まった。
「ですから、私と共に遠駆けでも如何です?…て、何固まってるんですか?」
「あ、いや…暇があれば大体書庫に引き籠ってる柊が遠駆けって、明日は嵐かなって」
「大概酷いですね、貴女は…。それで…お返事は期待しても宜しいですか?」
「え?あ、その…うん。…折角だけど…止めとく」
確かに、今日の仕事は大方片付けて来た。
その為自由になる時間が出来たのも事実だ。
だがしかし、それは元々自身に目的があっての事で、此処に来ていたのも単なる暇潰しではなく本当の所
理由があっての事だ。
折角の誘いを断る事へのちょっとした罪悪感からだろうか。
視線をあらぬ方向へ飛ばしながらのの言に、だが柊はほぼ彼女が断るだろう事は最初から予測していた。
何を目的――否、此処は誰を、の方が良いだろうか――にこの場所に居るのか…その理由は、強いて言えば
彼女が此処に居ると言うその事実が全てを語っている様なものだ。
「全く…妬けるものですね――」
ぽつりと呟いた半分は、本音。
残ったもう半分は…。
先程よりもすぐ傍まで近づいて来ているその気配に、柊は口の端をゆるく持ち上げる。
と、同時に、横に流している、結われずに風に靡くままの漆黒の彼女の髪の一房を軽く指で絡めると、そっとその
先端に唇を寄せた。
「ちょ、柊、何して…!?」
突然の事にぎょっとすると、驚きの余り動揺に声を上げるの姿に柊は何ら動じる事もなく、何時もの食えない笑みを
浮かべる。
「つれないものですねぇ…もっと素直になれば良いものを……そうは思いませんか?忍人」
「――って、忍人っ!?何時の間にっ!!?」
「…柊…何をしている?」
予想外に低く抑えた声が聞こえたと思ったと同時、急に肩を掴まれ後ろに引き寄せられた事で、何時の間にか至近距離に
あったと柊の間が離された。
守る様にを己の後方に押しやりつつ、射殺す様な視線を向けてくる忍人に内心苦笑して、やれやれと肩を竦めて
見せる。
この二人の関係は、本当に…如何ともし難い。
「別に何も。が唯、待ちぼうけを喰らっていたので暇である様なら遠駆けにでもと誘っていた所ですよ」
「貴様…」
さらりと言い放つ言葉に、更に怒気を孕ませる視線を向ける自身の弟弟子の姿に、柊はこれ見よがしに嘆息した。
「は、私達にとっても大切な妹弟子……人の非を責める前に、先ずは最近の己自身を振り返ってみては如何です?」
「――っ…」
無意識にその胸倉を掴み上げて、しかし何処か思い当たる事でもあったのか、言い返す言葉を持たぬまま苦い顔を
背ける。
「柊っ、それは―――っ!?ちょっ、忍人っ!!?」
余りの言い方に思わず反論しようと二人の間に身を乗り出そうとしただったが、自らの意思とは逆に重心が急に後ろへと
傾いて、その原因となった相手に素っ頓狂な声を上げた。
そのままずるずると後ろ手に引き摺られる様に引っ張って行かれる。
「ちょ、忍人っ!?まだ柊には話が――」
未だあの食えない兄弟子との話はついていない。
文句の一つと言わず、三つや四つ言いたい所ではあるのだが、黙ったまま自分の手を引く忍人の横顔を見て思わず口を
噤んだ。
「…相変わらず、貧乏籤ですね」
去って行く二人の後ろ姿を見送る柊の背に穏やかな声が掛る。
長年に渡る付き合いは、振り返らなくても声だけでそれが誰かを伝えるに易しい。
「本当ですよ…全く、思いっ切り痛い所を突いて来ますね、道臣」
一つ、溜息を吐き苦笑混じりに背後を向くと、予想通りの人物が困った様な微笑を浮かべ立っている姿に柊は更に
苦笑を深くした。
***
「あーっと、…忍人?」
「………」
「いや、ね?柊だって悪気があってあんな事言った訳じゃないんだよ?」
「………」
「私がぼけっと突っ立ってたのが悪かったと言うか…」
「………」
―――ガン無視ですか…。
何を言っても黙ったままの忍人には胸中で呟くとがっくりと頭を項垂れた。
ぱからぱからっと唯、馬の蹄の音だけが軽快に響く。
あの後、忍人に引き摺られるままに連れて行かれたのは軍馬を休ませている馬小屋で。
忍人は自らの愛馬である黒駿馬を引き出すと手綱を取り、戸惑う自分を問答無用で後ろに乗せるとそのまま
二人は馬上の人となったのだった。
今は木々の生い茂った林の中を駆けているのだが…。
何処へ行くつもりなのか皆目見当も付かない。
先程から何を問い掛けても無言の一点張りで答えようとしてくれない。
けれど…それも仕方がないかも知れない。
何故、忍人が怒っているのか…それは分からない。
分からないものの、その原因にはきっと自分自身や自分の軽率さが入ってるのではないか、と…何となく想像出来る。
は落ちない様にと忍人の腰に捕まった両手に――一応、も馬に乗る技術は持ち合わせているのだが、
まさか馬に乗る等と思ってもみなかった為、女官服のままだった事もあって流石にそのまま跨る訳にも行かず
一応女としての慎みを持って、横座りで乗っていた――ほんの少しだけ力を込めると、その背にこつんと額を寄せた。
「……ごめん」
蹄の音に掻き消される位に小さく、だが呟きにも似たそれは忍人の耳に確かに届いていた。
そのままの体勢で暫し…。
やがて何処か身に纏う固い雰囲気がふっと抜けて行くのを感じる。
「……いや…それは俺が言うべき言葉だ。…済まなかった」
少し振り返り、そう告げる忍人の顔には微苦笑が浮かんでいて。
何時も自分に向けてくれるその表情に、は無意識にほっと安堵した。
何の事はない…理由は分かっていたのだ。
あの争乱を経て、忍人とは互いの気持ちを同じくした。
それは既に周知の事実だ。
だが、中つ国を再興する上でそれぞれが担うべき役位と為さねばならない責務をこなす内に最近は擦れ違う事が多くなった。
しかし執務の為ならば仕方がないと、何処かでそれを言い訳にしていたのかも知れない。
そう思いながらも、それでもは時間が少しでも出来れば忍人に会いに来ていたのも確かだった。
だが自分は、と言えば…。
そうして会いに来てくれるに、自分は何時の間にか甘えていた。
そして柊は、そんな自分を言外に責めていたのだ。
本当に…自分は至らない…。
こんなにも自分を求めてくれる存在が居ると言うのに…そんな彼女を悲しませるのか、と。
それでも、何も問題はない、と。
大丈夫だ、とでも言うかの様に傍らに居てくれる。
それが当然なのだ、と…。
今すぐにでも抱き締めてしまいたい衝動に駆られるが馬上な事もあって、ぐっと堪える。
それ程までに強く、彼女の事を愛しいと、改めてそう思った。
「ところで忍人…一体何処に行くつもり?」
ふと思い出したかの様に尋ねるの声に小さく笑って、忍人は疾駆する愛馬の手綱を軽く引き直した。
「以前に言っただろう?『この戦いが終わったら…共に桜を見に行こう』、と――」
***
「大体…見ていて苛々するんですよ。私が望んでも到底手にする事が出来なかったものを、既にその手に
掴んでいると言うのに…」
柊は一人ごちる様に呟くと一つ嘆息する。
これまで自らに備わった星読みの力を行使し、あらゆる未来をも読み解いて来た。
その中には確かに辛い別離や絶望しか残らない道も数多くあった。
特に、忍人に関して言えば…。
だが、今こうして歩いて来た道はどうだろう?
忍人も命を落とす事もなく、風早も消える事もなく…自らも此処に留まっている。
この道の先は、誰も知るべくもないのだ。
真白への回帰、どの歴史にも刻まれていない、空白と言う名の概念伝承…。
誰もが伝承に記された通りの道を歩むのではなく、自らの手で未来を選んで行く。
そしてその道を示したのは、“”と言う、この道でしか存在しなかった唯一無二の彼女の存在…。
そうでなくても、仕える主とは又違う感情で自らが大切と思える…唯一人の、妹弟子なのだ。
には幸せになって欲しいと、願って止まない。
彼女の過去を知り、少しでも共に過ごした事があるのであれば誰もがそう思うだろう。
自分は勿論の事、風早や耶雲…此処に居る道臣も…そして、当然忍人も。
忍人を選んだのは、誰でもない自身。
そして忍人もその手を取った。
二人がそれぞれを求めて、自分達の意思で傍に居ると決めた事だ。
…それをどうこう言うつもりは、毛頭ない。
唯、彼女を悲しませ、泣かせると言うのであれば話は別だ。
その時には相手が誰であっても、当然それなりの覚悟はして貰うつもりだ。
「…結局、私達は昔からには弱いんですよね」
二人が去って行った方向を同じく見詰めながら道臣が苦笑と共にそう零した。
「――けれど、あの二人が選んだ道なら…きっと大丈夫ですよ」
この先どれ程の困難辛苦が立塞がろうと、二人は乗り越えて行くだろう。
今この時まで越えて来た道が、何よりそれを示しているのだから。
「……まぁ、そうでなければ困りますけどね」
「本当に、素直じゃないですねぇ貴方は昔から」
「一応これでも一国の軍師ですからね。軍師が素直でどうするんです?」
「あー、確かにそれは一理ありますね」
口の端をくっと持ち上げ何時もの微笑を浮かべそう言い置いて、宮に戻ろうとした柊の背に
道臣が声を投げ掛ける。
「…では、その軍師殿にお願いがあるのですが…」
「は?未だ何かありましたか?」
私とて忙しい身の上だと知っているでしょう?と続ける彼に道臣は朗らかに笑って見せた。
「忍人が居なくなったので、代わりに兵達への号令も下さなければならないのです。
…当然、その代役位は務めて貰えますよね?」
二人がこの場から去ったのはある意味貴方の言葉が原因と言っても過言じゃないですから。
笑顔のまま、そう続ける道臣に思わず柊は微かに頬を引き攣らせた。
「…本当に、吹っ切れましたね、道臣」
「ええ。人も…まだ捨てたものでもないと、そうが教えてくれましたから」
では、号令をお願いしますね、と踵を返す同門に、実は岩長姫の弟子の中で一番厄介なのは
腹の据わった道臣なんじゃないだろうかと密かにそう思う柊だった。
***
あれから馬で走り続ける事、数刻。
葦原を抜け、その先にある森に入り木々の開けた場所に出た、と思ったのとほぼ同時に忍人は
手綱を引き馬を止めた。
「此処、って…」
先に降りた忍人の手を借りて自らも地に足を下ろしたは思わず呟く。
其処は、大小様々な砂利や岩が転がる少し広い河原で。
間を山から下る清流が川を成し、その先にも又同じ様な河原があり、木々が迫る様に生い茂る森を
形作っていた。
しかし、自分達にとって此処はそれ以上の意味を持つ。
「ああ…確かこの辺りでだったな」
「うん…」
『そう言えば、さっき麓の村人に聞いたんだけど…この川の向こう側に桜があって…それは見事なんだって』
『そうか…』
『…一度、見に行きたいね…』
『……行くか』
『――え?』
『この戦いが終わったら…一緒に――』
それは、争乱の束の間に交わした一つの約束。
あの時は日々が死と隣合わせの毎日で…明日をも知れぬ身としては約束、と言うより、希望に近かったのかも知れない。
そんな小さな希望に縋るつもりはなかったが、それでも生き抜く為の理由の一つとしては十分だった。
そしてそれは、穏やかな日々を取り戻した証として今、約束として果たされようとしている。
「もう、ちょっと盛りの時期は過ぎたから…どうかな?」
季節は春が終わりを告げると同時に、森の木々にも青々とした葉が眩しい初夏へと変わりつつある。
普通の桜なら、もうほぼ散ってしまっている可能性の方が高い。
「そうだな…もっと早く来れたら良かったんだが…」
そう自身の言葉に返しながら、自然と忍人はに向かって手を差し出した。
初めて会った時を思えば…何だか不思議な感じだ。
何となく可笑しくて、小さく笑ってしまうとその眉を怪訝に寄せる。
「…どうした?何かあったか?」
「ううん、別に。何でもないよ」
首を振り、そう答えるとは迷わずその手を取った。
浅瀬で飛び石になっている所を選びながら川の向こう側に渡り、再び森に分け入って進むものの、時間は
さほど掛らなかった。
先程河原に出た時の様に唐突に視界が開ける。
「…すご、い…」
「…ああ」
もっと他に語彙はないのかと思わず突っ込みたくなる所だが、正直、余りの衝撃にそれ以上の言葉が
見つからない。
――それは、世にも見事な八重の大樹。
周囲にある桜は――染井吉野だろうか?――既にほぼ散り落ち青々しい葉をつけ始めているのに対して、
その一本だけは今を盛りと大輪の花を咲かせていた。
まるでその周囲だけ空間毎切り出されたかの如く、咲き誇る花々で薄紅に染まっている様に見えた。
唯、吸い寄せられるかの様に大樹へと近付くと、その太い幹を背に花を見上げる。
初夏の匂いを乗せた風に揺れて、花はその欠片をひらひらと舞わせた。
何時までそのまま花を見詰めていただろう?
未だ視線は薄紅に魅入られたまま、それでもはゆっくりと口を開く。
「……綺麗だね。まさかここまでとは思わなかった…」
「確かに…想像以上だな」
答える忍人も花を見詰めたままだったが、これも繋がれたままだった手に力が少々加わるのに、ふと
視線をの方へと向けた。
「…どうした?」
「ねぇ、忍人……もう一度、約束してくれる…?」
「…何だ?」
話難いのか、口にするのが難しいのか…。
何度か言おうとして口を閉ざす彼女が話すまで我慢強く待つと、暫くしても忍人に視線を向けた。
「――来年も、又、この桜を見に来ない…?」
「…来年、も?」
「そう…来年も。出来るなら…その又次も…その次の年も…」
「来年も、再来年も…?」
「うん。その次も…次も…、ずっと…」
「ずっと、一緒に…か?」
「…うん。…出来るなら、ずっとずっと…一緒に――」
まるで、祈る様に、願う様に…。
続けるの言葉に、忍人は眩しそうに今一度花を見上げてから視線を彼女に戻すと小さく微笑む。
「――分かった。来年も再来年も、その又先も…ずっと、共に見に来よう。桜の時期が来たら、必ず…」
それは、新たに結ばれた約束。
その言葉にも嬉しそうに小さく笑うと、二人して絡める指にぎゅっと互いに力を込めた。
何があろうとも、決してこの手を離さぬ様に――
吹き抜ける風が梢を鳴らし、二人の髪と衣服の裾を揺らす。
ひらひらと舞い散る桜吹雪の中、君と…
新たに交わした“約束”は、繋ぎ合わせた手の様に
決して離れぬ“誓い”となって
―――そして何時かは、“永遠”となる。
end.
20091113.
20100423.再掲
■後書き■
書き始めてから出来上がるまで実は凄く難産でした…(汗)
忍人さんルートで一番出てくるキーワードってやっぱり桜な感じがしますねぇ。
かなり季節にずれがあるんですが、八重桜は遅咲きで良かった…筈?(あれ)
そしてそして…何時もお世話になっている『蜜柑ドロップス』の日和様より素敵なイラストを頂きました!
相模の書いた文に、日和様がイメージイラストを描いて頂けると言う素敵なコラボを相互でしましょうと言う
お話になって、【約束】のシーンを描いて頂く事に…。日和様の見事なセンスで素敵な忍人さんと主人公が
出来上がりましたvvうわー、もう幸せになっちまえ二人とも!!(え)←
もうもう本当に素敵なイラストを頂いてしまって相模も幸せ者です(^^)
許可を頂きましたので、挿絵風な感じで此方には掲載させて頂いてます!
こんな遅筆な相模の全くもって稚拙なものではありますが日和様に文は捧げて頂きます!
コラボ、本当に有難うございましたv