中つ国に戻って数日。
漸く此処での生活にも慣れて来た。
と言うか、にとっては昔馴染んだ勘が戻って来たって感じだったが。
取り敢えず今の自分達がこの国でどう言う立場にあるのかと言う事実の上で、
中つ国の四道将軍の一人である岩長姫の下に身を置く事になった千尋達は目下、
先ずは高千穂に圧政を轢く常夜の土雷レヴァンタからの解放を為す為に情報収集から
始める事となった。
何時の時代も多くの情報を制した方が相手より勝ると言う戦略としては定石だ。
「あ、お帰りー!何処行ってたの?」
朝起きたら、居ないから吃驚したよと屋代に戻るなり駆け寄って来た千尋に
思わず苦笑する。
「千尋達と一緒だよ。情報収集にね」
「え?そうなの?」
但し、場所は千尋達が行った麓の村よりは格段に危険度の高いレヴァンタの屋敷がある
直轄地だったが。
風早とかは大丈夫ですからとかしか言わないんだものと言う千尋に僅かに視線を逸らす。
…先生、知ってたんだろうか…。
「那岐なんて酷いんだよ!?『お腹空いたらその内出て来るんじゃない?』って酷過ぎない!?」
…那岐、私はどこぞの腹ペコ魔人か?
……自分は居眠り大臣の癖に…。
何て事を考えつつ、目の前で嬉しそうに笑う千尋に釣られて破顔するがやっぱり千尋達に告げずに
行って良かったと確信する。
心配性な彼女に言ってでもすれば絶対に本気で止められたに違いないと思うし、自分の事の様に
思い悩むのは目に見えている。
千尋には必要以上の重荷を背負う事なんてない。
…後から風早からは説教を喰らうかも知れないけど。
ま、止むを得ないかな、等と考えていると行き成り千尋が至近距離で顔を覗き込んで来て思わず
少し身を引いてしまう。
「――って、話聞いてる??」
「あ…いや…ゴメン、何だって?」
「もうっ、やっぱり聞いてないんだから。あのね、だから――…」
「……………は?」
千尋が楽しそうに言うその提案に、は思わず間抜けな声を出した。
切欠は唯そんなもので。
「うわー、冷たいっ!」
中つ国の陣屋から数時足らず。
は千尋と共に比較的近くにある鎮守の森に来ていた。
森は規模としては小さいが、やはり橿原のあの時代のものとは違い小さくとも森は
原始の息吹に満たされている。
その森の奥――澄んだ泉に軽く潜っていた千尋が水面から顔を出した。
「千尋、あんまりはしゃぎ過ぎて溺れないでよ?」
「溺れないよ!足着くんだしっ!」
確かに、入ってみれば水嵩は丁度胸の辺り位までしかない。
…所で、何故にこんな所に二人で居るのかと言うと、何て事はない。
今日麓の村まで情報収集に行って来たと言う千尋が、その返り際に見つけたらしい。
陣屋にも湯殿はあるが橿原に居た時の様にそう毎日使える様な余裕も殆どなかったのが
正直な所だった。
そこで出た提案と言うのが千尋の、『水浴びに行こう』と言う言葉だった。
聞いてみたら陣屋からそう遠くはなく。
まぁ、自分も行くんだし身辺上の危険は責任をもって払えば良いと判断して千尋と共に
やって来たのだ。
…内心、流石にそろそろ身体の汚れを流したいと思っていたのも事実だけれど。
すぐ近くの岩場に衣服と武器を置き、その傍らで泉の水で身体を流す。
泉は何処までも清く、身の穢れを落として行く。
…このまま自らの背中に残る、呪でさえ流してくれれば良いのに――
そんな考えがふと頭をもたげて、はぐっと口を引き結ぶと一度水面下に潜る。
上に出る為に水中から空を仰ぐと水飛沫が日の光を反射してきらきらと輝いた。
…そんな事、出来ない事など自分がよく知っているくせに。
自分の思考を自ら切り捨てて、自嘲した。
全く、何時までも未練たらしいったらない。
やれやれと水気で額にくっつく髪を払った時、は唐突に感じた気配にばっと厳しい目を
投げた。
***
「…軽率だな」
森の木々の間から行き成り現れたその男にそう言われ千尋は思わず言葉を失った。
少し長めの黒髪と深い藍を基調とした服を見に纏い、腰には双剣を佩いた男は両腕を組むと
千尋をひたと見据え、続ける。
「水に入る時とは言え、今は戦の最中…何時如何なる時でも武器を手放すものではない」
いっそ淡々とした口調に込められた冷めた響き。
見た所常世の国の人間ではない様ではあるが…千尋には一切面識はなかった。
面識はなかったとしても、初対面の人間に対してそんな偉そうな言われ様は千尋にだって
なかった。
「なっ…それは、そうですけどっ…そんな言い方って――」
思わずむっとして言い返そうとする千尋ではあったが、それは最後まで続かず、聞き慣れた
声と高い金属のぶつかる音によって阻まれる。
「――そうですね。ですが、仮にも我等が主君に対してその言動は如何なものでしょう?」
「っ!!?」
背後に急に現れた気配と明確に自らに向けられた殺気。
武人としての勘か、瞬時に双剣を抜き放ち一切躊躇わずに突きつけられたそれを受け止め、
それから男は相手を見、千尋の呼び声にぴくりと反応する。
「……『』…?」
「…おや?私の名をご存知とは…流石は虎狼将軍と名高き葛城将軍と言った所でしょうか?」
口元に微笑は浮かべてはいるが、声は何処までも冷たい。
言い捨てると同時には男――葛城 忍人の双剣を苦もなく自らの武器で流し、捌いた。
そして千尋の入っている泉と忍人の間に降り立ち、二人の距離を離す。
そこまでの動作は流麗と言う言葉が正に相応しいと言える程無駄がなかった。
一方、忍人は忍人で突如として現れた女と千尋が言った『』と言った名前に引っ掛かりを
覚えていた。
…否、自分の記憶の中に刻まれ靄の掛かっていたその名前と眼前に居る『』と言う存在が
少しずつ一致して行く。
「君は…まさか…」
「その話は又後程。それよりも葛城将軍…先ず言うべき事はありませんか?」
そう言うと武器を腰の鞘に収めつつ、はにっこりと誰もが見惚れる微笑を浮かべる。
「仮にも私達の主…それ以前に女性の水浴び現場に遭遇、しかも直に目撃した上で言うべき言葉
――勿論、分かりますよね?」
その微笑は確かに綺麗で、だが綺麗なだけに何故か数倍の凄味が感じられるのは気のせいではないだろう。
言いながら、は腕に持って来ていた自分の上衣を千尋の方に向かって投げ放つ。
斯く言うの姿と言えば、人の気配を感じたと同時泉から上がり傍らにあった自分の服を引っ掛けた
だけだったので、濡れたままの身体に下衣と言う薄着で短めの裾からは普段人目には触れない白い足。
深い色の髪も濡れ、今も水滴が落ちている。
その姿は、何処か侵しがたく清冽であり、それでいて艶めいた彩を感じさせた。
そして、千尋はと言うと…
「うわっひゃあっ!!?」
「すっ、すまないっ!!!」
今の自分の姿がどんなのかを思い出した千尋がの投げた上衣を手にし、叫び声と共に後ろを向くのと
眼前のの姿に今更ながら状況を理解した忍人が頬を染め、思いっ切り顔を同時に逸らすのを見て、
はやれやれと肩を竦めた。
***
「…しかし、君があの姫と共に居たとはな…今まで何処に?」
天鳥船に戻った三人は堅庭に設えられた現代で言う、テラスの様な所でそれぞれが席に着いていた。
一通り――何せ千尋は忍人と面識がなかった為、互いがどう言う人間か示す必要があった――自己紹介を
済ませた後、千尋が風早に呼ばれてしまい席を立った。
その後ろ姿を見送って、ぽつんと残された二人の間に僅かな時間沈黙が落ちる。
とは言え、何時までもぼーっとしている訳にも行かず、が用意をしていた急須でお茶でも淹れようと
した時、おもむろに忍人が口を開いた。
「…何処にって言われても…異世界?」
「何故疑問形なんだ?」
「上手い表現方法がなかったのよ。もっと言えば、此処とは良く似て非なる場所って所かしら?」
会話の応酬しつつ淹れたお茶は二人分…当然、その一方を忍人へと差し出す。
もう一方である自分の為に入れたお茶を口に運びながらはそう続けた。
…正直、どう説明した所か、自分自身分からない部分も多いのだ。
口に含んだお茶に、微かに眉を顰める。
少し、濃く淹れ過ぎただろうか?
そんな事を考えていると、手渡した茶飲の緑の水面を唯見詰めていた忍人が再びゆっくりと口を
開く。
「……君は、一ノ姫の女侍官になったのではなかったか…?」
不意に問われた内容には茶飲を口に運び、一口飲み干すと一拍間を置き、改めて忍人に向かい合った。
「――託されたからよ。…ニノ姫を…千尋を」
『お願いよ、…勝手な事だと言う事は分かってるわ…。それでも、貴女にしか頼めないの…』
嘗ての言葉が蘇る。
目を閉じれば今も一層鮮やかに、瞼の裏に灼き付いて離れない…あの時の光景が。
「だから私は今、生きて…千尋と共に此処に居るのよ」
それだけを言うとはこの件についてはもう何も言う事はないとでも言うかの様に、席を立ち
堅庭から出て行った。
はぁ、と一つ溜息を吐く。
「…君は、変わらないな…」
一人残された忍人は夕方近くなり冷たくなって来た風に吹かれながら小さく呟いた。
離れてしまったのは、何時からだっただろう?
少なくとも、自分達の祖国である中つ国が滅びたあの時から――
あの戦火の中、行方不明となった彼女。
王族でありながら王位継承権を捨て、自ら守る側を自分の意思で選び…そして仕えるべき主を失って
それでも唯、前だけを見据えていた。
この五年…消息を途絶え、やはり彼女はあの戦いで命を落としたのではないか…そう考えながらも
その考え自体をもしかしたらと、何度も打ち消しては虚しいとも言える想いを抱いて。
そして今…再び彼女は自分の前に姿を現した。
あの頃と何も変わらない…強い意志の光をその瞳に宿したままに。
そう…
「本当に…君は全然変わっていない…」
初めて師君の所で出会った時と同じく、自分の胸に又、もどかしい程の熱を思い出させる。
切欠など単純なものだった。
『貴方が、葛城 忍人…?』
強い意志を秘めた闇色の瞳と共に自分の名を呼ばれた瞬間に――
自分の中に、『』、と言う存在を刻まれた切欠は、唯、そんなものだったのだ。
2008/07/25
加筆修正。