放課後の校舎内は、生徒達の居る時間帯のそれと違ってとても静かだ。
  勿論、生徒会やら体育会系の部活やらで残っている者達の掛け声がグラウンドの
  方から響いているが、それも校舎内に居ると、何処か遠い。
  その上、此処が音楽科棟にある練習室ともなれば尚更だった。
  
  しかし、流石と言うべきだろうか?
  市内では珍しい、音楽科に力を入れている学校だけあって、練習室の並ぶ廊下ですら
  防音が効いているのか自分達が普段いる普通科の校舎とは比べ様もない程静かだった。
  そんな中を一応控えめに、それでも小走りに走る。


  ――急がなくては…


  普段なら「廊下は走るな」と講師が居れば注意が飛んだだろうが、生憎それを見咎める
  者も居なかった。
  二人で曲を合わせたりする時に、何時も使う練習室の一角へと急ぐ。
  今日は一緒に帰ろうと約束していたと言うのに、その時間は当に過ぎている。

  だが、彼の事だ。
  何時だって二人で約束をした事を違えた事は、まだ付き合い始めて短いが(それ以前に
  友人関係だった時の方が断然長いと思う)決して、ない。
  そんな彼の事を思えば、先に帰るなんて考えられない。
  幾ら急に生徒会に借り出されたとは言え、何も言えないまま彼を待たせる羽目になっている
  自分に苛立って、思わず舌打したくなった。

  きっと彼は、遅れた自分の理由を聞いて、例え何分待っていたとしても、「待ってないよ」と
  笑うのだ。

  元々フェミニストな気質もあるけれど、それ以前に、彼は、優しい。

  だからこそ、その優しさに甘えたくはなかった。


  …これはある意味自分勝手な意地だけど。


  とは言え、意地っ張りだと誰に言われようとも、自分のこの性格を変えるなんて事は毛頭ない。
  到底素直とは言えない自分に小さく嘆息して、は目的の練習室の前まで着くと一つ息を整えて
  勢い良く扉を開けた。



  「ごめんっ!待たせてっ…教室戻る時に生徒会の役員に捕まっちゃっ…て、…あれ…?
   葵…?」



  捲くし立てる様に遅れた理由を話そうとして。
  しかし、練習室の中のその光景に、は思わず彼の名を呼んだ。





  ***





  今日も一日授業が終わって、何時も通り彼女と帰ろうと思って右後ろを振り返る。
  だが、普段居る筈の彼女の姿は何時もの席にはなくて。
  先の授業が移動教室だったから、まだ帰って来てないのかもしれない。
  そう思い、先に帰る準備をしようとする加地の目によく見知った赤い髪の少女が映った。



  「日野さん、さんは?」


  「あれ?加地君、一緒じゃなかったの?」



  授業が終わった後に先に行くって言ってたからてっきり一緒だと思ってたんだけど…と、首を
  傾げる香穂子に、思わず「え?」と聞き返す。

  どうやら香穂子の中では自分と彼女の存在は、常にセットである方程式が出来上がっているらしい。

  …否、まぁ、それは別に悪い事では全然ないのだが。
  逆に、ずっと想い続けていた彼女と自分が周囲から見ても何時も傍に居る様に見えると言う事が、
  互いに想い合う仲になったのだとその度に再確認させられて…それが少し、気恥ずかしくもあって。
  だがその事実は、加地の心に何処か温かい何かが灯る気がした。

  …とは言え。
  残念ながら、その想う相手は今現時点では自分と一緒には居なかった。



  「うん…そっか…。ごめんね、日野さん。急に呼び止めたりして」



  教室に入って来た時には少し焦っている様だった。
  片手は自身の机の脇にあるバイオリンケースに伸びてる事から、おそらく月森君辺りと練習の約束
  でもしていて、それで急いでいたのかも知れない。
  加地が謝るのに香穂子は慌てて両手をひらひらと面前で振る。



  「ううん!別に気にしないで?全然大丈夫だから!!…それにしても、、何処行ったんだろうね?」



  誰か、先生にでも捕まったのかな?と呟く香穂子にそうだね…と教室内に視線を回すがやはり、彼女の
  姿はない。
  だが今日は二人で帰ろうと約束していた事もある。
  そして、そう言う所は律儀な彼女がまかり間違って先に帰るなんて事はしないと断言出来た。



  「そうだね…もう少し、待ってみるよ」



  加地の言葉にそう?と返し、じゃあ私は先に行くねと手を振り、香穂子は急いで教室を出て行った。
  その後姿を微笑ましく見送りながら、そのまま自分の席について今は居ない彼女の席を眺めつつ本人の
  帰りを待つ。


  だが、しかし。
  それから10分、20分……30分と待っただろうか?
  の姿は一向に教室へと現れなかった。
 
  …もしかすると、本格的に誰かに捕まったのかもしれない。

  携帯にも連絡がない事から考えると…日野さんの言う通り、先生にでも捕まったのか…それとも又、別の。
  生徒会役員とかにでも引き止められたとか?
  以前同じ様に――唯その時には自分も直ぐ傍に居合わせたのだけれど――通りすがりのエントランスで
  書記を務めている音楽科の女生徒の3年の先輩に呼び止められていたのは記憶に新しい。

  そうだとするならば、まだ幾許かは時間が掛かるかも知れない。
  少しだけ考えてから、加地は思い立った様に席を立った。
  自分の荷物と彼女の席に掛けてある鞄とヴィオラケースを取ると教室を出る。

  向かう場所は決めてある。
  付き合い始める以前、互いに日野さんのアンサンブルに参加する事となった時から二人でよく使っている
  音楽科棟にある練習室の一室。
  其処は元々そう決めてあった訳ではないけれど、何かあった時には自然と二人が落ち合う場所となって
  いたから。


  丁度良く誰も使っていなかった何時もの練習室に着くと、加地は荷物を壁際に置き、空気を入れ替える様に
  窓を開け放った。
  少し肌寒くなった風に目を瞑り、耳を澄ます。
  遠く、下校する者や部活に勤しむ生徒達の声…誰かが練習で楽器を奏でる音が聞こえる。

  ――この中の何処かに、君は居るだろうか?

  そんな考えがふっと頭に巡り、自分自身に苦笑する。
  どうやら自分は相当彼女に侵食されてしまっているらしい。
  唯それも、自らが望んでの事には違いはないのだから、余程だろう。


  壁際に置いたケースから、自分のヴィオラを取り出す。
  窓の外を眺めながら加地はおもむろにヴィオラを構えると、弦に弓を走らせた。





  ***





  「あ……、お早う、葵。目が覚めた?」



  開け放たれた窓から覗く、夕日を背景に笑うの姿に、加地は数回、目を瞬かせる。
  ……どうやら、何時の間にか寝てしまっていたらしい。
  音合わせ用に設置されているアップグランドに突っ伏していた上体を持ち上げる。 
  傍らに置いたままのヴィオラを見て、そして視線を窓の方へと向けた。



  「ごめんね、待たせて。生徒会に捕まってたんだ。…それにしても、よく寝てたねぇ」


  「………そんなに?」 


  「うん。少なくとも私が此処に来て、10分位は確実に?」



  此処に来て入るなり大声で言っても全然反応なかったし。
 
  疲れてたんじゃない?と苦笑するに、ごめん、と言おうと身体ごと向き直ろうとして。
  同時に、しゃらり、と小さく音がした。
  見てみれば、何時の間にかシルバーのブレスレットが左腕に嵌っていた。



  「――これ…?」



  同じくシルバーのタグとその片隅にはどちらかと言うと碧に近い、小さなブルートパーズが
  嵌め込まれている。
  窓から入って来る夕暮れ時の赤い光に、男性用の少し太めな鎖が鈍く、反射する。
  視線をへと向けると「あー」とか「うー」とか言いにくそうにしていたが、やがて根負けした
  のか、加地の方へと向き直る。



  「……遅くなったけど、バースデイプレゼント、の…つもり?」


  「さん……何で、疑問形?」


  「あ、あはははは!ま、まぁ良いじゃない!」



  何処か気恥ずかしくて、笑って誤魔化すときっと夕暮れと負けず劣らず真っ赤になっているだろう
  自分の顔を見られたくなくて思いっ切りは視線を逸らした。
  そんな彼女が堪らなく可愛くて、愛おしくて。
  自分の中にある衝動を何とか押さえ込みながら、加地はふとブレスレットのタグの裏を見た。
  
  其処に小さく彫り込まれていた、言葉――

  それを見て数瞬、固まってしまったがその言葉が意味する事に、加地は自然と微笑を零した。



  ――本当に、彼女には敵わない…。



  「とは言え、そろそろ帰ろうか?最終下校時刻過ぎちゃってるし…」



  最近めっきり寒いからお茶でもして帰ろうか?とか言うにゆっくりと近付くと口を開く。



  「さん、このブレスレットに彫ってある言葉って…」


  「ああ、それ?イタリア語だよね?私、イタリア語って少ししか分からないから何て書いてあるか
   までは分からなくって…」



  店員さんに――恥ずかしながら彼氏へのプレゼントだと言って選んで貰ったのは内緒だ――贈り物
  ならこれが最適ですよ、って言われたもののその言葉の意味は教えて貰えなかった。



  「そうなんだ…」


  「うん。本当、どう言う意味なんだろうね?――さてっと、そろそろ帰ろうか?」



  そう言って、自分の分の荷物を渡してくるからそれを受け取ると同時に、加地はおもむろに
  彼女の左手を取った。



  「…お茶に行くんだよね?だったら駅前通りの方に寄って行こうか…確かあの辺りにさんの好きな
   ジュエリーショップもあったよね」


  「え?うん…この前出かけた時偶然見つけた所?」



  以前アンサンブルの練習帰りに通った時に見つけた、アンティークも扱っているとても雰囲気の良い
  ジュエリーショップが駅前にはある。
  でも、其処に何の用があるのだろう?
  思わず首を傾げるに加地はにっこりと微笑すると告げた。



  「――こんな言葉を贈られて、応えないなんて…僕には出来ないよ。せめて此処に嵌めるリング位、
   僕に贈らせてくれる?」



  言うなり、加地は捕まえていたの左手の薬指のその付け根に、優しく唇を落とす。



  「へ!?あ、…え?あ、葵っ…?!」



  自分のそんな行動に面白い位に動揺し、顔を真っ赤にさせるに加地は愛おしさからそっと彼女の腰を
  抱き寄せた。










  
絡めた左手で結ぶのは。





  ブレスレットのタグの裏側。
  其処に刻まれたイタリア語…


       『Lei e amato per sempre.』



  その意味は……



       ――『貴方を永遠に愛す。』





 






                                                  2008/12/12.
  

  


  
  ■あとがき。■

   久しぶりにコルダ、加地夢です!遅ればせながら、ハッピバースデイ!(遅っ)
   しかし本当に久しぶりに加地を書いたので…似非な感じが…orz;;
   でも祝う気持ちは無限大なんだぜ!(笑)
   感想とか頂けたら嬉しいです!!