「…久しぶりだね…忍人――」





  ―――数年前、中つ国と常世の国の間で起こった争乱。


  結果中つ国は滅亡し、豊葦原は常世の国の支配する所となった。
  その争乱の中、ニノ姫の女官長を務めていた彼女は、主と共に燃え上がる橿原の宮から行方不明となった。
  何処へ行ったのか、生きているのか…消息不明となり、果てにはニノ姫と共に死んだのではないかと言う噂まであった。

  その彼女が、高千穂に在る師君の下に主と風早、そして那岐と言う少年と共に戻ったと知らせが届いたのはつい先日の事。
  中つ国再興の為、四国を廻り高千穂の師君の軍と合流した自分の前に彼女は再び現れた。

  …ちゃんと、生きた姿で。

 
  離れていた数年と言う年月は、互いを大人へと成長させ、見慣れたあの頃の彼女とは又、違った。
  腰位までに長かった筈の漆黒の髪は、肩口までしかなかった。
  すらりと伸びた背丈に肢体。
  未だ幼さが残っていたあの頃とは違い、女性としての柔らかさとしなやかさを併せ持って…。
  だが、その面差しと奥底に強い意志を宿す眼差しは変わっていない。
  
  ああ…確かに、彼女は自分の知る“”と違わないのだ、と。


  「ああ…久しぶり、だな。…」


  その名を再び呼ぶ事が出来ると思わなかった。

  己の名を彼女の声で再び呼ばれる日が来るとは思わなかった。

 
  目の前に生きて、自分の名を呼ぶ彼女が居る。


  その事実は忍人の心にこの数年感じる事すらなかった確かな安堵感とでも言う何かを、それがまるで当たり前とでも
  言わんばかりに与えられた様な気がした。




  ***




  ――その夜。

  砦の大部屋の一室でささやかな酒宴が催された。
  とは言え、単に岩長姫が弟子との再会を祝すと言う適当な理由を付けた全く個人的な酒の席だったが。
  自分と同様に、ある意味無理矢理参加させられた風早――ああ見えて実は酒に弱い事は同門の中では周知の事実だ――
  と、これも又強制参加の耶雲が出ているのであれば無碍に断る事も憚られるだろう。


  「何だい忍人、全然進んでないじゃないか。遠慮するこたぁないよ?今日は風早とあんたが無事に戻った祝い酒だ。
   たぁんと飲みな」

  「はぁ…」


  殆ど手を付けていない杯を見て、岩長姫がそう言うのに曖昧に返しつつ。
  何処か困った様に眉を少し寄せる忍人に風早や耶雲は微苦笑を浮かべる。
  別に風早の様に酒に弱い訳でもない。
  唯昔から、こう言った席が苦手と言うか…。
  仕方なく少し杯を傾ける忍人に何処かやれやれと言った風に、しかし又、満足そうに笑うと岩長姫は自らも酒を注ぎながら
  話題を変えた。


  「しかし風早…あんたもよく無事に戻ったもんだよ」


  禍つ神の前に行き成り現れたあんた達を見た時は、一瞬幽霊でも出たのかと思ったよ。
  冗談めかすその言に微苦笑しつつ、風早が続ける。


  「いいえ…俺達もすぐに合流が出来たのが師君の軍で助かりました」

  「まぁ、そうさね。所で…この数年、一体何処に身を隠してたんだい?」

  「そうですね…此処から遥か遠い場所、でしょうか?」

  「何だい。ヤケに抽象的じゃないか」


  まぁ、あんたのそれは今に始まった事じゃないけどね。
  そう零し、杯を一気に呷る岩長姫に確かにと小さく笑いながら。


  「だが、よく一人でニノ姫を育て、守り抜いたものだ。大変だったろう?」


  自らの師の言葉を継ぐ様に隣の耶雲がそう問うのに対し、風早は笑った。


  「那岐も居ましたからね。それにも…――」


  不意に出た名前に、思わず顔を上げる。
  
  その笑顔はこれまでの状況を語っていた時のものとは明らかに違っていた。
  何時もよりも穏やかで、暖かで…、それは、まるで――


  「そう言やぁ、あの馬鹿娘も一緒だったね…。同じ様に行方不明だったから死んだかも知れないと思っちゃいたが…。
   風早、あの娘はちゃんと役に立ってたかい?」

  「ええ…はどんな時でも、俺の支えになってくれましたから…」

  「そうか…。言われてみればまだ俺も会ってないな。は今、何処に?」

  「俺の代わりに今は千尋の傍に付いて貰ってるよ」

  「成程な…なら俺も明日には会いに行くか」


  他愛のない会話が続いて行く。
  だが忍人は押し黙ったままで。
  そんな弟弟子の様子に気付いた耶雲が声を掛ける。


  「おい、忍人…どうかしたか?」

  「あ、いや……何でも、ない」

  「そうか?それなら良いんだが…」


  ――嘘だ。何でもない、なんて事はない。

  もやもやとした“何か”が、自らの心を覆っている。
  そんな“何か”を振り払う様に、忍人は軽く頭を振ると杯の酒を一息に飲み干した。





  ***





  宴も酣となり、酒席がお開きになったのは夜もすっかり更けた頃だった。
  師君の所から辞し、各々が自分に与えられた部屋へと帰って行く。
  自らも大部屋を退出した時、丁度廊下の先を歩いて行く風早の後ろ姿を認めた。
  
  確か、風早の部屋はニノ姫である千尋の居室の近くだった気がするが…。

  それとは逆方向に歩いて行くのを見ると、どうやら楼台の方に向かっている様だが、おそらく酔いでも醒ましに行くのだろう。
  その背を一瞥して、自室に向かおうと踏み出そうとした時。


  『ええ…はどんな時でも、俺の支えになってくれましたから…』


  不意に先の風早の言葉を思い出し、思わず足を止めた。

  あの時、の名前を呼ぶ風早の目は何処までも穏やかだった。
  彼の仕えるニノ姫の、千尋に向ける眼差しとは又明らかに違う。

  最初は自分と二人だけしか居ない、ニノ姫の従者であると言う、同僚意識からかと思った。
  それに、風早とは同じ師を持つ兄妹弟子でもある。
  だからこそ、その間にある身内同士の気安さから来るのではないか、と…。


  だが――違った。

  
  数年前…まだ自分達が一緒に居たあの頃とは全く違う。

  違うのだ、と気付いてしまった。


  風早がに向ける眼差しは――その眼差しに込められた感情の意味は…。



  そこまで考えて忍人は思わずはっとした。
  何時の間にか強く握り締めていたらしい…両の掌に爪が食い込んで薄らと血が滲んでいた。
  暫くただ呆然と己の掌を見詰めて、一つ、嘆息する。

  (…らしくないな)

  そう思い、今まで考えていた事を頭を振る事で振り払おうとした。


  死んだと思っていたも、風早も生きて帰って来た。
  それだけでも喜ばしい事ではないか。
  

  なのに、何をそれ以上不満に思う事がある?




  風早の姿は、既に廊下の先に消えていた。
  そして忍人も自室へと足を向ける。


  胸の内に残るもやもやとした渦と、チクリとした小さな痛みに気付かないフリをして。








  深く刺さった棘の在処

  (心の奥の底深く、芽生えた痛みは棘となり、その存在を叫び続ける)










                                                       <過去拍手用>20100729/再掲。